世の中には、愛に満ちあふれている人と、そうでない人がいます。
愛に満ちあふれている人は、いつも友人と楽しそうにしています。
友人との関係だけでなく、家族や恋人との関係もよく、毎日を楽しそうに生きています。
愛とは勉強することではありません。
自分の中から引き出すものです。
人間は、愛によってできていますから、本来、どんな人間にも必ず共通して愛を持っています。
心のごみによって、愛の光が遮られているといいました。
では、心のごみは、どう取り除くのでしょうか。
実は、心のごみの正体は「幻想」です。
高い視点から見ることができるようになると、真実に気づくことができるといいました。
心のごみは、幻想です。
しかし、それに気づくことができない現実があります。
私は以前、アメリカに留学をしていた経験を持っています。
それまでは正直な話、家族からの愛に気づけない自分がいました。
私の母は過干渉であり、いつも私に入り浸ります。
すべての行動は、愛への欲求の表れです。
愛への強い欲求があるから、日常において私たちはさまざまな行動に出ます。
たとえばまさに今のあなたです。
愛とは何なのでしょうか。
まずは、この基本から始めましょう。
愛に目覚めるとはいえ、愛について何なのかがわからなければ、話になりません。
愛とは「個と全体との一体化」です。
自分とそれ以外が、1つになることをいいます。
「相手のことを考えて行動することが大切なくらいはわかっている。
人間関係で悩んでいる人は多いのではないでしょうか。
いくら相手のことを好きになろうと思っても、そう思えない心があります。
大嫌いな人とは、話をしたくないのはもちろん、声すら聞きたくはありません。
私たち人間は、過去の記憶によってできています。
過去に起こった楽しい経験やつらい経験によって、今、起こっている出来事が、良い出来事か、それとも悪い出来事かを判断します。
過去に叱られた経験がある人は、今叱られると、過去の記憶を呼び出し「これは悪い経験だ」と自分で勝手に解釈します。
人間の本当の愛は、日常生活においてどう表現されるのでしょうか。
どんなことが、本当の愛と言えることなのでしょうか。
本当の愛は「解放」という形によって表現されます。
あなたは、何かを捨てることができますか。
捨てるということは、失い消えてしまうことだと思っていませんか。
ですが「なくなる」ということはあり得ないのです。
対立は、境界線をつくることから発生します。
境界線を引っ張るから、区別されてしまい、別々の存在としてわかれます。
たとえ同じ存在でも、境界線を引っ張ってしまったがために、2つにわかれて対立し合うことがあります。
「Your happiness is my happiness.」
日本語に訳すと「あなたの幸せは、私の幸せ」という意味です。
ことわざではありませんが、私がいつも思っている言葉です。
愛を表現した形は「周りと一体化すること」です。
つまり「調和」です。
周りと一体になれるような行動なら、何でも愛を表現した行動と言えます。
愛にあふれる人の共通点は「与える人」であることです。
愛に目覚めている人は、与えることが習慣になっています。
自分が受け取るより先に、まず与える側に回ります。
愛を意識した生活には、与える側に回ることがポイントです。
自分は、何を与えられるのかと考えるとき、得意なことを思い浮かべてください。
今の自分が得意としていることを通して、与えることができないかと考えてみるのです。
あなたにとって本当に大切なことを思い浮かべるとき、どのような方法を採りますか。
今、持っているものを思い浮かべながら、大切なことを考えますか。
友人の顔を思い浮かべたり、過去にあった記憶を探ったりと、大切なことを見つけるために、いろいろな方法があることでしょう。
私たちは、宇宙の中にいます。
いえ、私たちも宇宙の一部です。
人間や、家、他人、空といった区別は、人間の目から見えている幻想に名前を付けているだけです。
人を好きになるという愛には、次の4種類があります。
(1)テイク&テイク(受け取るだけの愛)
(2)テイク&ギブ(条件付きの愛)
よく片思いを、愛の一種と考える人がいます。
たしかに愛といえば愛になりますが、厳密にいえば「駆け引きの愛」になります。
本当に愛について考えると、片思いは的が外れてしまうというところが正直なところです。
人付き合いの究極は、無償の愛を持って接することです。
ギブ&ギブによって、見返りを求めない愛によって、人との関係が向上します。
しかし、あなたは、心の中ではこう思っているのではないでしょうか。
「世の中、お金がいちばん大切だ」
こういうことを言う人を、ときどき見かけます。
たしかにお金は、生きていくためには必要不可欠なことです。
大人になって社会に出ると、少なからず利益損得を考えて行動するようになります。
友人をつくるとき。
仕事を選ぶとき。
愛を感じ、受け止めるためには、素直さが必要です。
素直になるからこそ、ありのままの感情を受け止めることができるようになります。
無理やりかっこつけたり、意地を張っていると、なかなか愛を感じることができません。
誰でも自分のことを大切にしてくれる人を、大切にしようと思います。
自分に対して愛を注いでくれる人は、自分のことを愛してくれていると感じるからです。
親や兄弟、友人などは、代表的な愛を注いでくれる存在です。
「愛を注ぐ」
「愛を持って接する」
「愛に満ちあふれる」
愛とは「人を好きになること」と思っているのではないでしょうか。
たしかにそれも大切です。
ですが、答えの1つにすぎません。
愛のあふれる人になる方法は、実は誰しもすでに知っています。
・人を助けること
・元気よく挨拶すること
悪口を言うことは、簡単なことです。
それでいて、すっきりします。
即効性があります。
世の中には、愛に満ちあふれている人と、そうでない人がいます。
愛に満ちあふれている人は、いつも友人と楽しそうにしています。
友人との関係だけでなく、家族や恋人との関係もよく、毎日を楽しそうに生きています。
植物を大切にして、飼っているペットと仲がよく、また部屋の中もきれいに整理整頓がされています。
そのうえ、いつも笑顔です。
人に親切で優しく、思いやりがあり、温かいハートを持っています。
その一方、愛のない人は、笑顔が少なく、友人や家族との人間関係もうまくいっていません。
当然ですが、表情が硬くて暗くなり、友人もできにくくなります。
部屋の中はごみや雑誌で散らかり、片付けがされていません。
人とはよくぶつかり、いざこざ、争い、けんかは絶えません。
あなたなら、どちらの人生を好みますか。
こう聞けば、100人中100人とも「愛に満ちあふれた人生」を選びます。
みんなが、愛に満ちあふれた人になりたいと願います。
最も幸せそうだからです。
すべての人には、共通して「幸せになりたい」という願いがあります。
すべての人が共通して、愛でできているからです。
すべての人に共通して、心の根底には、必ず愛があります。
日常では、見栄や体裁、欲があり、つらい過去のために、本来自分の中にある愛を外に出せません。
しかし、愛のある人生は、ささいなことを心がけることで、実現できるようになります。
愛は、本を読むことで学べるわけではありません。
本来、自分の中にあるわけですから、自分の中から引き出していくだけでいいのです。
その出し方を、まだ知らないだけです。
自分の中にあるだけですから「どうやって取り出すか」がポイントです。
その方法を今ここでお伝えしますから、いま一度自分の生活や行動を振り返ってみましょう。
愛に目覚める方法です。
あなたも自分は「愛によってできていること」に、気づくでしょう。
愛とは勉強することではありません。
自分の中から引き出すものです。
人間は、愛によってできていますから、本来、どんな人間にも必ず共通して愛を持っています。
愛だけは、どんな人の心にも存在しているのです。
しかし、それが、心のごみによって見えなくなります。
心のごみとは「見栄」「エゴ」「過去のつらい記憶」「トラウマ」「コンプレックス」などです。
こうした心のごみがあり、心の奥底から輝いている愛があっても、ごみが邪魔をして光が遮られている状態になっているのです。
愛は勉強するものではありませんから、いくら本を読んでも意味がありません。
一時的に頭の中ではわかったような気がしますが「偽り」です。
「愛のある人生と、ない人生。どちらが幸せになれると思いますか」と聞けば、すべての人が「愛のある人生」だと答えます。
頭では、わかっているのです。
教えられてわかることではなく、すでにみんなが、気づいていることです。
しかし、悪いことをする人でも、頭ではわかっていても、そのとおりにできない現実があります。
いくら勉強をしても、愛は本から学ぶということはできません。
本から学ぶことで愛が得られることは、おかしな話です。
先ほども言いましたが、愛はすでにみな持っているのです。
愛によって私たちは、出来上がっています。
肉体という体があり、体は心によって動かされ、心の中心に愛があり、温かく輝いています。
ただ心のごみが邪魔をして、光を遮っているだけです。
悪いことをする人は、その心のごみが人一倍多くて、中心から放つ光が、ほとんど遮られてしまっている状態になっているのです。
本当に大切なことは、愛を学ぶことではなく、この心のごみを取り払うことなのです。
心のごみを取り払うことで、すでに存在している愛が見えてくるようになり、温泉を掘りあてたように湧き出てきます。
実は、愛に満ちあふれる人とはいえ、すでにみんなが愛に満ちあふれているのです。
ただ人によって、愛は満ちあふれているのに、隠れてしまっている人がいるのです。
愛に目覚めるとは、心のごみを取り払うことです。
光を遮っているふたを、取り除くことです。
曇っているガラスを拭いてあげることです。
黒いサングラスから、透明色のメガネに変えることです。
それだけで、誰しもが本来持っている愛が湧き出てくるはずなのです。
本を読みあさり、机に向かって勉強することなど、本来まったくする必要のないことなのです。
心のごみによって、愛の光が遮られているといいました。
では、心のごみは、どう取り除くのでしょうか。
実は、心のごみの正体は「幻想」です。
実際には底にあるように見えて、実は存在していません。
自分があるように認識しているだけであって、実際には存在していないのですから、その事実に気づくだけでいいのです。
「エゴ」「過去のつらい記憶」「トラウマ」「コンプレックス」もあるように思えて、実はないのです。
あなたが勝手に自分でつくり出したことです。
話を大げさにしています。
本当はありませんが、あるかのように、自分が強くそう信じ込んでいます。
では「実は存在しないのだ」という事実には、どうすれば気づくことができるのでしょうか。
それは「高い位置から見ること」によって気づけます。
高い位置から物事を見ることができるようになれば「こういうことだったのか」と、一瞬にして真実に気づけます。
私たちの今住んでいるところは、平面のように思えますよね。
しかし、いくらそう思っても、事実は違います。
高い宇宙から見下ろすことができれば、実は地球は丸い事実に一瞬で気づけます。
私たちが今立っている地面は、平面のように見えて、実は平面ではない事実があります。
視野が狭く、低い位置から見ていると、地面は平面であるような気がしますが、高い視点から見ると、球形であることに気づきます。
心のごみも同じです。
今は視野が狭く、視点が低いために、事実とは違った形として認識されています。
心のごみも、本当にあるように思えてなりません。
ですが、もっと高い視点から見ると、実は心のごみは存在していなかったことに、気づけます。
高い視点から見ることができるようになると、真実に気づくことができるといいました。
心のごみは、幻想です。
しかし、それに気づくことができない現実があります。
視野が狭く、低い視点から物事を見ている癖がついているからです。
あなたの視点をもっと高くすれば、必然的に視野が広くなります。
視点を天井から見下ろすことができれば、部屋全体が見渡せるようになります。
屋上から見ることができれば、自分の家と周辺を見渡せるようになります。
次は空から見下ろしてみましょう。
空からは、町全体を見ることができます。
その次は宇宙から地球を見下ろしましょう。
地球という星全体が、視野に入り、見えてこなかった部分まで見えるようになります。
それができれば、次は太陽系全体から見てみましょう。
次は、銀河系からです。
そこまでできれば、究極的には、宇宙全体から、何もかもすべてを含めて見ることができるようになります。
究極的に高い視点とは、すべてを含めた「宇宙全体から見る」というところからです。
これこそが、究極に高い視点となります。
真実に気づけば、一瞬のうちに事実が見えるといいました。
では、さっきより高い視点から見ることができるようになったあなたに、ちょっと質問です。
「今、あなたはどこにいますか」
視野の狭い人は、今立っている場所を答えます。
私なら、今、新宿にいます。
たしかにそれも答えです。
ですが「答えの1つ」であり「本当の答え」ではありません。
高い視点から見ると、日本にいるということもできます。
もっと高い視点から見ると、地球にいるということもできます。
同時に太陽系にいるともいえますし、銀河系にいるということもできます。
究極的な事実としては「宇宙にいる」ということができるのです。
私は今、新宿にいるという答えは無限にある答えの1つであって、本当の真実ではないのです。
今、新宿にいながらにして、同時に日本にも、地球にも、太陽系にも銀河系にも、すべてに所属しています。
本当の真実としては「宇宙にいる」という答えになります。
視点が低いと「部屋にいる」とか「家にいる」と答えます。
間違いではありませんが、視野が狭く視点の低い答えなのです。
しかし、あなたの視点が高くなれば「部屋にいる」以外の答えを出すことができるようになりますよね。
むしろ「部屋にいる」という答えは、大変に視野の狭い答えであることがわかるはずです。
視点が高くなれば、あらゆる真実が見えてくるようになります。
見えてこなかったことや気づかなかったことに、一瞬にして気づくことができるようになります。
ずっと「こうだ!」と思い込んでいたことでも、視点が高くなるだけで、実は違っていたことに、気づくことができるのです。
私は以前、アメリカに留学をしていた経験を持っています。
それまでは正直な話、家族からの愛に気づけない自分がいました。
私の母は過干渉であり、いつも私に入り浸ります。
父はいつも仕事のため、ほとんど家にいません。
愛について感じることのなかった家庭でしたが、これが留学を経験することで変わります。
親のもとを離れ、遠いアメリカで1人生活を送るようになると、親からの愛を理解できるようになったのです。
いえ、気づいたというほうが適切でしょう。
「ある」のに「なかった」と、勘違いをしていたことに気づいたのです。
では、なぜ気づくことができたのでしょうか。
遠く国を離れることで、視野が広くなったからです。
視点が高くなり、視野が広くなり、全体から見ることができるようになったからです。
母がいつも干渉してくるのは、私のことを思ってのことということに、気づきます。
生まれてからの私にしてくれたすべての世話に対して、まさにすべてが愛の塊であるという事実に気づくのでした。
家族の中にいると、意外なことに愛には気づけないものです。
視野が狭くなるからです。
近すぎて見えないのです。
近くにいると大切なことには気づけないものであり、離れてみると視野が広くなることで見えてくるようになります。
世間知らずと同じように、狭い世界だけで生きていると、本当の真実が見えてきません。
しかし、家族と離れ、アメリカという遠い国まで行ったことで、いつの間にか私の視点が高くなり、視野が広くなったのです。
同時に、今まで見えてこなかったことが急に見えるようになり、涙を流した自分を今でも覚えています。
家族からの愛情だけではありません。
日本食のありがたさ、日本語の素晴らしさ、友人の大切さ、文化の素晴らしさなど、考えるようになります。
また考えてもわからなかったことが、遠く離れることで、理解できるようになります。
一人暮らしをする経験も、同じように当てはまります。
自分の地元を離れて、ほかのところで生活するようになると、親との距離が離れますから、必然的に視野が広くなります。
近くから親を見ていると、視野が狭いために大切な愛が見えてきません。
親から遠く離れると必然的に視野が広くなり、愛が見え、理解できるようになります。
この不思議な経験は、本を読んだだけではわかりません。
実際に経験すると、発見のように一瞬にして「あっ!」と思い、理解ができます。
あなたが一人暮らしをしたことがなければ、一度トライしてはどうでしょうか。
親のもとを離れて生活をしたことがなければ、親のもとを離れて生活してみましょう。
すると、今見えないことが、見えてくるようになります。
離れることで、自己啓発ができ、愛に目覚めるきっかけになるのです。
すべての行動は、愛への欲求の表れです。
愛への強い欲求があるから、日常において私たちはさまざまな行動に出ます。
たとえばまさに今のあなたです。
あなたは人から愛されたい欲求があるために、今この本を読んでいるはずです。
他人から慕われたい、頼りにされたい、注目されたい、無条件に認められ、愛されたい。
そういう願いを叶えたいから、このようにサイトを開き、読むという行動に出ています。
そのほかの例としては、見栄を張っている人です。
見栄を張っている人も、愛への欲求が表れた行動です。
いつも自分をよく見せようと見栄を張ります。
「すごいね」という一言を言われたいがために、自分をいつも以上に素晴らしく見せようとします。
しかし、なぜそんなことをしようとするのかというと「認められたいから」です。
他人から注目され、自分という存在を見てもらいたいからです。
つまり愛されたいのです。
愛を求める欲求があるから、人に注目してもらおうとします。
人に注目してもらうために、見栄を張り、肩書を求めようとします。
また全身をブランドで固めている人がいます。
ブランドこそ、自分を高めるステータスと思い、少しでも高価で有名なブランドをこれ見よがしに買い求めます。
なぜブランドをもちたがるのかというと、それによって自分も一緒に素晴らしくなると感じるからです。
ブランドのネームバリューによって、自分のステータスが上がったような気になり、人に注目されるようになるからです。
つまり、自分のことを認められたい欲求があるのです。
自分が愛されたい、という欲求があるのです。
ブランド品は、愛の代替品にすぎません。
ブランドを持っている人は、愛の代替品を持つことで、愛を手に入れているような気分になり、はまっているのです。
人の話を聞かず、自分の話ばかりする人も同じです。
自分の話ばかりすることで、もっと自分のことを知ってもらいたいと思っています。
「自分に興味を持ってもらいたい、認めてもらいたい、愛されたい」
そう思っているからこそ、自分の話ばかりして、人の話は聞こうとしないのです。
出世をしようとする人も、社会的な地位を得て、たくさんの人から能力や実績を認められたい気持ちがあります。
認められることで、自分の欲求を満たして、愛の代わりにしようとします。
人間は愛によってできています。
すべての人が、愛には敏感になります。
「パワー・マネー・セックス」もすべて、愛の代替品です。
地位を求め、お金を求め、セックスを求める理由は、愛が欲しいから、そうしているのです。
愛を手に入れたいがために発生している行動なのです。
そうした行動によって、私たちの社会は回っているのです。
愛とは何なのでしょうか。
まずは、この基本から始めましょう。
愛に目覚めるとはいえ、愛について何なのかがわからなければ、話になりません。
愛とは、単純なことです。
愛とは「すべてと1つになること」を言います。
「個と全体の一体化」と言っても、かまいません。
あなたと私は、今、別々の個体として存在しています。
しかし、1つであるかのように、接したり、話をしたり、協力し合おうとすることが、つまり「愛」です。
「助け合うこと」
「教え合うこと」
「協力し合うこと」
これらは、すべて1つになろうとする力のことです。
「相手のことを思って行動する」とも言いますが「相手と1つになりたい」わけです。
愛の表れなのです。
愛に満ちあふれる人には「助け合うこと」「教え合うこと」「協力し合うこと」といった共通点があります。
1つになろうとする行動をしています。
愛があるから、相手と1つになろうとし、助け合い、教え合い、協力し合おうとするのです。
本人に「みんなと1つになりたい」という気持ちがあれば、当然、助けたり、手伝ったりしようとします。
愛に満ちあふれている人の行動は、いわば「自分と全体を1つにしようとする行動」です。
溶け込もうとする行動です。
すべてに溶け込み、すべてと1つになりたいという願いがもとになり、行動をしています。
相手と争うことはありません。
それどころか、相手と1つになろうとしてしまうのです。
愛のある人は、争いやけんかはなく、すべての人、物、出来事との関係と1つになろうとします。
人だけではありません。
物、植物、動物に対しても優しくなります。
毎日お世話になっている布団をたたまず乱暴に扱っても、そんな布団の中で寝るのは自分です。
自分のことを大切にしようとすると、自然に布団をきれいにたたみ、まめに洗濯をするようになります。
自分が寝るのですから、自分を大切にいたわろうとすれば、物に対しても優しくなります。
植物や動物に対しても、同じです。
植物が元気に育てば、鑑賞する自分も元気になります。
飼っているペットがいつも元気なら、自分も元気になります。
相手に優しくすることは、自分に返ってくるのです。
愛とは「個と全体との一体化」です。
自分とそれ以外が、1つになることをいいます。
「相手のことを考えて行動することが大切なくらいはわかっている。
それができなくて困っているのではないか!」。
今、そう心の中で思っているのではありませんか。
無理やり相手のことを考える必要はありません。
「相手に優しくしよう、しよう」と強く考えてしまうことは、そう思っていないということです。
正直なところ、いくら相手のために行動しましょうとはいえ、そうできない現実があるのはたしかです。
誰しも、自分がいちばん大切だからです。
自分のことをいちばんに考えてしまうからです。
しかし、ちょっと待ってください。
自分のことを大切にしようという欲求があるなら、もっとその欲求を幅広く深く掘り下げていくことです。
すると、自分のために相手に対しても優しくなることができるようになります。
相手のことを真剣に考えるためには、もっと自分のことを真剣に考えるのです。
すると「相手の幸せ=自分の幸せ」と、跳ね返ってくることに気づきます。
究極の自己愛でいいのです。
「え? それじゃあ結局自分のことばかりを考えて行動するの?」
そこまで自分のことを考えるようになれば、相手のことを思って自然に行動ができるようになります。
相手と仲良くならないと、つらい目に遭う人は自分だからです。
自分が幸せになるためには、相手と仲良くならなければなりません。
自分のことをもっと愛そうと思うなら「もっと相手と仲良くなろう」という気持ちが自然と出てきます。
自分への究極の自己愛に目覚めると、他人に優しくできるようになりますし、ごみのポイ捨てもしなくなります。
相手との人間関係は、なにより自分のためになるからです。
町にごみを捨てても、その町に住むのは自分ですよね。
結局自分が困ってしまうことになります。
ごみを捨てても、そんな町に自分は住んでいますから、跳ね返ってくるわけです。
きれいな町に住みたいと強く願うようになれば、ポイ捨ては自分で自分の住んでいる町を汚してしまっていることに気づきます。
自分への強い愛があれば、ごみのポイ捨てもしなくなります。
けんかも争いもしなくなります。
そんなことをして、いちばん苦しみ傷つく人は、誰より自分だからです。
相手と仲が悪くなれば、苦しむ人は自分です。
相手が存在しているかぎり、ずっといらいらしていないといけないからです。
仲が悪くなっても、自分がつらい思いをするだけです。
自分に優しくしたければ、相手と争いけんかをしようとしません。
それどころか相手に優しくなり、思いやりが自然と出てきます。
相手との関係が良くなることで、自分が幸せになれるからです。
愛に満ちあふれる人になりたければ、もっと自分のことを考えて、愛しましょう。
今まで以上にもっと自分のことを大切にして、愛しましょう。
すると、不思議なことに他人のことまで愛することができるようになります。
愛に満ちあふれている人は、自分を、究極に愛している人のことなのです。
人間関係で悩んでいる人は多いのではないでしょうか。
いくら相手のことを好きになろうと思っても、そう思えない心があります。
大嫌いな人とは、話をしたくないのはもちろん、声すら聞きたくはありません。
顔も見たくないし、視界に入ってほしくないくらいです。
仲の悪い人とは、なかなか思うような関係が築けません。
こうしたとき、どうすればいいのでしょうか。
誰が悪いのでしょうか。
悪いのは誰でもありません。
ただあなたが、そうした出来事や刺激の受け止め方が少し下手なだけです。
大切なことは、受け止め方です。
受け止め方によって、あらゆる出来事が変わります。
出来事を変えようとするのではなく、受け止め方を変えることです。
過去のつらい出来事も、つらいと感じているのは、自分の心です。
ある出来事を、自分が勝手に「つらい」と感じています。
出来事そのものがどうかではなく、つらいと考えるあなたの受け止め方に問題があります。
出来事を変えるのではありません。
受け止め方を変えることがポイントです。
以前、私は仕事で、顔も見たくない人と出会ったことがあります。
本当に意地悪ばかりをしてくる上司であり、仲はよくありませんでした。
たしかにその当時は、本当に毎日がつらく「こんな人にはなりたくない」と思っていた。
しかし「こんな人にはなりたくない」と思っていたからこそ、反面教師にでき、今の私が存在しています。
そう考えると「今の私がいることは、その人のおかげ」とも言えます。
過去のつらい出来事、すべては自分の受け止め方しだいで変わります。
つらい過去があるのではなく、つらい過去にしている自分の心があり、そうした受け止め方をしているだけです。
受け止め方を改めましょう。
「つらい」と考えるのではなく「勉強になる」と受け止めます。
大嫌いな人と接していても「この人のおかげで、悪い例に気づくことができた」と感謝さえしてしまう。
私は性格の悪い人と接したときは「こんな人にならないように気をつけよう」と受け止めています。
もしかしたら自分がしていたかもしれない行動や発言を、私の代わりにしてくれています。
おかげで私は、同じ過ちを繰り返さなくて済んでいます。
受け止め方しだいによって、すべての出来事が変わります。
自分にとってプラスになる受け止め方なら、どう受け取ってもかまいません。
つらい出来事があるのではなく、自分がそう受け取っているだけだと気づけば、怖いことはなくなります。
私たち人間は、過去の記憶によってできています。
過去に起こった楽しい経験やつらい経験によって、今、起こっている出来事が、良い出来事か、それとも悪い出来事かを判断します。
過去に叱られた経験がある人は、今叱られると、過去の記憶を呼び出し「これは悪い経験だ」と自分で勝手に解釈します。
過去に好きな人とキスしたことがある人が、好きな人とキスをすれば「これは良い経験だ」と過去と照らし合わせて判断します。
同じような出来事が起これば、過去の記憶と照らし合わせてスイッチが入り、感情や気持ちが自動的に湧き出てくるのです。
叱られると過去の記憶と照らし合わせて「自分はつらい経験をしている最中だ」と判断し、それ相応の感情を自分でつくります。
好きな人ができれば、過去の記憶と照らし合わせて「自分はハッピーだ」と解釈し、それ相応の感情になるようスイッチが入ります。
まさに私たちは、記憶によってできているのです。
自動販売機のように、ボタンを押せば、それ相応の商品が出てきます。
ある出来事が起これば、それ相応の気持ちや感情が湧き出てきます。
過去の記憶によって、今のあなたの感情や気持ちが決定されています。
ですが、ちょっと待ってください。
本当に悪い出来事って、悪い出来事なのでしょうか。
私は過去に先生にひどく叱られた経験がありますが、そのおかげで大切なことに気づくきっかけになりました。
人前で恥をかく経験をしたことがありますが、そのおかげで少しずつ、恥ずかしくないマナーを身につけることができました。
過去の悪い出来事は、見方を変えると、実はどれも良い出来事なのです。
プラスとしか考えようのない事実に気づくはずです。
これが「出来事の受け止め方を変える」ということです。
「愛に目覚めるということ」です。
出来事に良い悪いという色がついているわけではありません。
あなたが勝手に自分で色をつけているだけです。
そう思い込んでいるだけです。
受け止め方を変えれば、振り返りたくもない暗い過去と思っていた出来事が、実は輝くような素晴らしい出来事へと変わります。
黒ばかりになったリバーシも、ある駒を白にひっくり返せば、たくさんの黒が白へとぱっと変わります。
私は過去につらいなという経験をたくさんしてきました。
厳しい親に育てられたり、留学をして英語や生活に苦労をしたり、友人や恋人との関係、仕事の苦労など、いくらだってあります。
しかし、今振り返ると、それらどれも今の私には、なくてはならない出来事だったとわかります。
そうした出来事があったおかげで、今の私が存在し、このようにHAPPY LIFESTYLEをつくることができています。
過去への受け止め方を変えれば、今が一瞬にして変わるのです。
「あんな出来事さえなければ良かったのに」
「あのときの出来事さえなければ、今はうまくいっていたのに」
このように過去の出来事を変えようとするのではなく、過去の受け止め方を変えるのです。
「叱られる経験があったおかげで、大切なことに気づくことができた」
「失恋を経験できたおかげで、愛の大切さを知った」
リバーシのように黒から白へとひっくり返して、過去を変えてしまうのです。
過去に起こった出来事そのものを、変えることはできません。
ですが過去に起こった出来事への受け止め方は、いつでも変えることができるのです。
今、あなたがつらくて、恥ずかしくて、思い出したくもない過去を背負っているなら、受け止め方を変えるだけでいいのです。
出来事を変えることは絶対にできません。
受け止め方を変えることで、プラスへと転化させていくことが大切なのです。
人間の本当の愛は、日常生活においてどう表現されるのでしょうか。
どんなことが、本当の愛と言えることなのでしょうか。
本当の愛は「解放」という形によって表現されます。
「解放」は、まさに愛があるからこそできる行為です。
相手に対して愛がなければ、解放をすることはできません。
相手に対して愛がない人は、解放するどころか、束縛し、自分の物だけにしようと執着します。
好きな人同士が、相手が浮気しないようにとお互いが束縛し合うという話をよく耳にします。
かくいう私も、以前に付き合っていた女性と束縛し合っていたことがありました。
相手のことが好きであり、誰にも取られたくない気持ちから、お互いに束縛をし合っていました。
しかし、今振り返って考えると、本当の愛ではなかったということに気づきます。
ただ、相手を自分のものにしたいがための、誰にも取られたくないという執着の心だったのです。
当時、私と彼女は、お互いに束縛し合っていたこともあって、友人関係や学業にも支障を来していました。
束縛をし合っていますから、ほかの友人ともなかなか会えず、ましてや異性と会うなんて厳禁でした。
破ろうものなら、雷が落ちるところです。
いつも一緒にいる関係ですから、友人関係だけでなく、学業にも支障を来し始めます。
束縛をしても自分だけはいい気になるかもしれませんが、全体から見ると悪い方向へと傾いてしまっているのです。
私は当時の自分を振り返って、恥ずかしく思います。
自分は、ただ彼女を誰にも取られたくないという執着の愛によって付き合っていたのだとわかります。
本当の愛ではなかったのです。
もし、私が彼女に対して本当の愛があれば、必ず「解放」ができたはずです。
いつでも友人と会うことを許し、異性と会うことも許します。
常にメールを交わすこともやめて「気になったときにメールしていいよ」と優しく話しかけることでしょう。
そのように解放することで、彼女は自由に動き回れるようになり、人生が豊かになるからです。
幸せになれるからです。
彼女にとって本当の幸せは、ずっと私に束縛されることではなく、解放されるときにあるのです。
ちょうど、飼い主と犬の関係のようなものです。
いくら飼い主が犬好きだからとはいえ、ずっと鎖につなぎっぱなしでは、犬にはマイナスになります。
自由に走り回ることができなくなり、足腰が弱り、ストレスがたまり、食べる一方でブクブクと太ってしまうでしょう。
いくら飼い主が犬に対して愛があっても、束縛をしているかぎりは、本当の愛ではないのです。
犬に健康で元気になってもらおうと犬の幸せを第一に考える人は、必ず鎖を離すことができます。
自由に動き回れたほうが、自由に走り回ることができ、足腰が強くなり、ストレス解消にもなるからです。
本当の愛に目覚めるために、束縛はやめましょう。
束縛ではなく、解き放つことが、本当の愛の表現となるのです。
あなたは、何かを捨てることができますか。
捨てるということは、失い消えてしまうことだと思っていませんか。
ですが「なくなる」ということはあり得ないのです。
宇宙全体から見れば、全体の量はまったく変わっていません。
「ある物が、あなたの元を離れた」という事実にすぎません。
手放すことはできても、消してしまうことができないのです。
あらゆる「捨てる」という行為は、ただ形が変わったり、存在している場所が変わったりしているにすぎません。
本を燃やしても、ただ、灰と二酸化炭素という形に姿を変えただけです。
完全にこの世から消えてなくなってしまったわけではありません。
本を破っても、本がなくなったわけではなく、ただ形が変わっているだけです。
人にあげてしまっても、ただ自分のもとを離れるだけであって、存在する場所が変わってしまうだけです。
あなたが水を捨てても、洋服を捨てても、友人を捨てても、それらは実は本当に捨てられてはいないのです。
完全にこの世から消し去ってしまうことは不可能なのです。
ただ形が変わったり、存在する場所が変わったりするだけであって、完全にこの世から消えてなくなってしまうわけではありません。
この世の中において、捨てようと思っても、実は捨てることはできないのです。
全体的な量としては、何も変わっていません。
捨てるということが、失うことだと思っている人は、大変に狭い視野でしか、物事を考えることができていません。
世の中は、全体として「大きな1つ」です。
「宇宙」の中の1つでしか、ないのです。
全体の各部分によって、原子の密度や組み合わせの違いにより、鉄や空気、人間といった森羅万象が表現されているだけです。
光は1つしかないように思えますが、プリズムを通すと、無限の色が表現されることと同じなのです。
密度や組み合わせによって、世の中にはいろいろな物質があるように見えているだけです。
世の中には「捨てられない人」がいます。
写真が捨てられない。
本が捨てられない。
思い出が捨てられない。
物や人、記憶に対して、捨てられないということは、温かい響きがあるかもしれませんね。
しかし、ただ「執着」しているだけです。
「自分の物にしたい! 手放したくない!」という執着の愛であって、本当の愛ではありません。
この世にあるものは、誰のものでもないからです。
全体は「宇宙」という「1つ」でしかなく、初めから誰かの所有ではないのです。
誰のものでもなく、宇宙の一部にすぎないのです。
あなたは、誰がつくりましたか。
自分で自分を作ったわけではないですよね。
あなたの親がつくりましたよね。
では、あなたの親は、誰がつくりましたか。
あなたの親の親がつくりましたよね。
さかのぼっていけば、地球が私たちをつくり出したことに気づきます。
地球は太陽系によってつくり出され、太陽系は銀河系によってつくり出されています。
銀河系は、宇宙によってつくり出されているのです。
対立は、境界線をつくることから発生します。
境界線を引っ張るから、区別されてしまい、別々の存在としてわかれます。
たとえ同じ存在でも、境界線を引っ張ってしまったがために、2つにわかれて対立し合うことがあります。
風船の中に入っている空気は、外にある空気と変わりません。
風船の中に入っている空気も、外にある空気も、同じものです。
しかし、ゴムで境界線を引っ張ってしまったがために、別々のものであるかのように映ってしまいます。
しかし、風船を割ってしまえば、中の空気と外の空気は一瞬にして、同化してしまいます。
それもそうです。
元は同じものだからです。
私たち人間も同じです。
私たちは、それぞれが別々の名前を持ち、別々の顔を持ち、別々の肉体を持つことで、個人として別々の存在とされています。
しかし、元は肉の塊であり、原子の組み合わせであることには変わりありません。
しかし、名前や顔が違うために、まったく違うタネから生まれた生物のように見えます。
私とあなたは、別々の存在のように見えますよね。
しかし、実は、同じ素材からできています。
顔つきが違い、2つにわかれても、本当は同じ存在です。
風船が2つあっても、中に入っている空気と、外に存在している空気は同じ空気であることには変わりありません。
ただゴムという皮によって境界線が引っ張られているために別々のものになり、個々として見えてしまうのです。
「Your happiness is my happiness.」
日本語に訳すと「あなたの幸せは、私の幸せ」という意味です。
ことわざではありませんが、私がいつも思っている言葉です。
日頃から思い描いているおかげで、私は何度も助けられています。
愛について考えると「あなたの幸せは、私の幸せ」は合理的です。
相手が幸せになれば、笑顔になりますよね。
笑顔になってくれれば、見ている私も一緒に明るくなれます。
私が明るく笑顔になれば、相手もそれを見て、また明るく笑顔になってくれるわけです。
まさに「幸せの連鎖」が始まるのです。
笑顔は、誰かを笑顔にさせます。
「Your happiness is my happiness.」を心がけると、幸せの連鎖が始まります。
相手のためになることは、自分のためになります。
自分のためになることは、相手のためにもなります。
相手も自分も、すべてが「宇宙」という「1つ」です。
深いところでは関係がつながっているのです。
相手が明るくなれば、こちらまで明るくなります。
そんな私たちを見ている周りも、明るくなりますよね。
明るい雰囲気が、さらにほかのグループへと明るい影響を与えていけば、一緒にハッピーになれます。
愛に満ちあふれるためには、相手の幸せを考えることです。
巡り巡って、自分の幸せについて考えることになります。
愛を表現した形は「周りと一体化すること」です。
つまり「調和」です。
周りと一体になれるような行動なら、何でも愛を表現した行動と言えます。
周りと調和した行動にはさまざまなことがあげられます。
形はさまざまですが、これらはどれも個人と個人が1つになる瞬間です。
相手と自分との間に境界線を引くような態度や行動、発言はやめましょう。
相手と1つになれるような態度や行動、発言をすることが大切です。
愛は調和することですから、愛に目覚めている人は、調和を意識した行動をするのです。
愛にあふれる人の共通点は「与える人」であることです。
愛に目覚めている人は、与えることが習慣になっています。
自分が受け取るより先に、まず与える側に回ります。
決して見返りを求めて与えているわけではなく、ただ純粋に「与えること」に喜びを感じているのです。
与えて相手が喜んでくれれば、実は自分が潤います。
もちろん相手も潤うでしょうが、喜んでくれる姿を見て、こちらも精神的に元気になります。
愛のある人は、与えることが習慣になっています。
見返りは求めません。
相手がただ喜んでいる姿を見ることが、楽しみになっているのです。
「でも、私に与えられることって何かわからない」
このように与えることを大げさに考える人がいますが、ささいなことでもいいのです。
ささいなことから与える練習をしてみましょう。
相手が笑顔になって喜んでくれている姿を思い浮かべれば、楽しくなり与え上手になれます。
おかしな話ですが、与える側のほうが、実は最終的には受け取る側より豊かになります。
受け取ることしか頭にない人は、受け取ったときにしか喜びを感じられません。
受け取るだけが、良いことという認識しかしていないのです。
しかし、与える側は、与えたときと受け取ったときの両方で喜びを感じます。
与えて喜んでくれるところを見て嬉しくなり、さらに自分が受け取ったときも嬉しく感じます。
つまり、与えたときと受け取ったときの2回、喜びを感じることになるのです。
受け取るだけの人の、2倍以上の開きです。
最終的には与える人のほうが、精神的にも物質的にも豊かになるのです。
愛を意識した生活には、与える側に回ることがポイントです。
自分は、何を与えられるのかと考えるとき、得意なことを思い浮かべてください。
今の自分が得意としていることを通して、与えることができないかと考えてみるのです。
たとえば私なら、文章を書くことが好きです。
また得意なことでもあります。
昔から幸せについて興味があり、それに関する本は読んできました。
そのときに得た知識や知恵を体系的にまとめて文章を書き、ウェブサイトを通して発表しています。
これはこれで、1つの与える形の1つです。
お金を必要とせず、ただで読めるようにしています。
自分が得意なことを通して、与える側に回るとはこうしたことです。
自分ができる得意なことを通して、人に与えることができないかと考えてみましょう。
あなたにとって、得意なことは何ですか。
その得意なことを生かして、与え上手になってはいかがでしょうか。
あなたにとって本当に大切なことを思い浮かべるとき、どのような方法を採りますか。
今、持っているものを思い浮かべながら、大切なことを考えますか。
友人の顔を思い浮かべたり、過去にあった記憶を探ったりと、大切なことを見つけるために、いろいろな方法があることでしょう。
ですが、本当に大切なことは、次の方法によって本物が見えてくるようになります。
死の瞬間から、今を見るのです。
自分が将来、死ぬであろうときの光景を思い浮かべます。
あなたが人生の最後に行き着くところは、死です。
あなただけではなく、私も、みんなも、生き物すべてが同じです。
最後には必ず、死というゴールが待ち受けています。
逃げようがなく、絶対的な事実であり、真実です。
本当に大切なことを考えるときには、そんな人生の最後である死の瞬間から今を見るといいのです。
中途半端な視点から考えるより、死という究極的な視点から考えると、本当に大切なことが見えてきます。
たとえば、お金は大切なことでしょうか。
たしかにお金は生きるためには必要です。
衣食住にはお金がかかり、交際費、交通費、光熱費など、人生ではお金のかかることばかりです。
しかし、死の瞬間から考えてみるとどうでしょうか。
死の瞬間から見ると、本当の答えが見えてきます。
あなたが100歳の大往生を向かえ、今まさに人生を終えるというときに、お金が欲しいと本当に願うでしょうか。
いいえ、そうは思わないはずです。
お金はあの世まで持っていけないからです。
お金はたしかに大切ですが、本当に大切ではありません。
では、次に、地位や権力、肩書はどうでしょうか。
仕事を立派にこなし、社会的にも多くの人から仕事ができる人だと認められ称賛されます。
承認欲求を満たせ、満足を感じることができるでしょう。
しかし、死に直面したときに、そうした地位、権力、肩書をどう思うでしょうか。
もう今から死ぬというときに「社長になりたい!」「偉そうに威張りたい」と思うでしょうか。
いいえ、そうは思わないはずです。
今から死ぬというときには、地位、権力、肩書をあの世まで持っていくことはできないからです。
どうでもいい話になっているはずです。
生きている間の大変短い話です。
このように年を取り、よぼよぼの老人の末、死の直前になったときに「本当に求めていること」がはっきり見えてきます。
まさに今から死ぬというとき、あなたは何を求めますか。
何を欲しがりますか。
目をつぶって、想像して、考える時間をつくってください。
私なら、死に直面したときには、みなに愛されて死んでいきたいと願います。
自分の得意な幸せに関する知恵、文章能力、コンピューターの知識を大いに生かし、残して、人生を全うしたいと願います。
もしそれが実現できれば、私は今死んでもいいなと、本当にそう思います。
どうせ死ぬのですから、意味のある生き方がしたい。
生きている間の活動が、ほかの人の役に立ち、感謝され、称賛され、愛されることができれば、満足して死を迎えられるでしょう。
社会に貢献する意味のある人生を送ることができれば、安心して死ねます。
そんな死の瞬間から今を見ることで「今、何をするべきか」が必然的に見えてきます。
どんな仕事に就き、友人を持って、経験を積んで、本を読むべきか。
こうしたことは、死の瞬間から今を見ることで、見えてきます。
私は今、HAPPY LIFESTYLEの運営を通して、世間に対して、幸せに関する知恵を少しでも広めようと活動しています。
死の瞬間から今を見ることで、今何をするべきかが見えてきたのです。
本当に求めることがわかったのです。
私はこのようにして「自分にとって本当に大切なこと」を早い時期に気づき、見つけることができました。
お金も、家も、権力も地位も、私が死ぬときには、色あせて見えます。
単なる紙切れであり、幻想にさえ思えます。
あらためて、あなたへ質問です。
年を取り、まさに今これから死ぬというとき、何を願い、求め、欲しますか。
もうあと数時間後には、死んでしまいます。
「考えたくない」と思うでしょうが、いずれそういうときがきます。
そんなとき、何を思い、何を願い、どうされたいですか。
目をつぶって、瞑想して、人生の最あとから今を考えてみましょう。
本当にあなたにとって、大切なことは何ですか。
それに気づくことができれば、死の瞬間から今を見て「今、どうするべきか」「次に何をするべきか」が見えてくることでしょう。
本当に大切なことは、死の瞬間から今を見ることで、気づくことができるのです。
私たちは、宇宙の中にいます。
いえ、私たちも宇宙の一部です。
人間や、家、他人、空といった区別は、人間の目から見えている幻想に名前を付けているだけです。
人間が名前をつけることで、別々の存在のように認識してしまっていますが、実際はどれも宇宙なのです。
原子の組み合わせや、粒子の密度が濃かったり薄かったりすることで、水や空気や机や椅子が出来上がっています。
全体として、宇宙1つしかありません。
「自然」という言葉がありますが、これは宇宙の法則のことです。
私たちはみんな、宇宙の一部であり、宇宙そのものなのですから、この自然という宇宙のルールに従うことが必要です。
「自然の流れに沿う」という言葉がありますが、これは結局宇宙の法則に従うことなのです。
そうした意味でも、自然の流れに従うと、すべてがうまくいきます。
私たちも宇宙の一部であり、自然の一部ですから、その流れに乗れば、力を入れなくても回り始めます。
川の流れと同じです。
海に向かって流れる川は、まさに自然の流れです。
川に流れる水の上を、カヌーに乗って川を上っていこうとしても、力が入り、大きな前進がありません。
水の流れは、その流れに沿って進むことが、最も自然な流れです。
川の流れに沿って進むと、カヌーはもはや力を入れなくても、すいすい前に進むことができてしまいます。
自然の流れに沿って生きるとは、こういうことです。
もし、川の流れに逆らうカヌーのような生き方をしていれば、何か生活がおかしくなります。
病気になったり、けんかをしたり、いらいらしたり、物事がうまくいかなくなります。
それはまさに「自然に反していますよ」という自然からの警告なのです。
宇宙があなたに、教えてくれているのです。
その警告に従い、自分の人生を振り返ることが大切です。
私たちが自然そのものなのですから、自然には逆らえないのです。
人を好きになるという愛には、次の4種類があります。
一般の人が思っている「愛」は、区別が曖昧なものが多いですが、この機会にくっきりと区別を付けておきましょう。
まず(1)のテイク&テイクとは、受け取るだけの愛です。
生まれたばかりの赤ちゃんが、親から世話を受けることは、まさに受け取るだけの愛に当たります。
与えることができず、また与えるだけの力はなく、受け取るのみになります。
受け取ったから、お返しとしてギブをするということです。
自分のことを好きになってくれる人のことを好きになってしまう人は、これに当たります。
相手から愛情を受け取ったから、見返りとして愛を返すという条件付きの愛なのです。
「私を愛して。そうすれば私もあなたのことを愛します」
「私を好きになってください。そうすれば私もあなたのことを好きになります」
こうした受け取ってから、動き始める愛です。
あまり良い印象を受けませんね。
本物の愛ではありません。
続いて(3)のギブ&テイクは、駆け引きの愛の1つです。
自分が相手のことを好きになるが、見返りを求めてのことというときです。
好きな人がいて片思いをしている場合は、まさにこれに当たります。
片思いの正体は「ギブ&テイク」だったのです。
本当の愛ではありません。
片思いは、相手が自分を好きになってくれないと成就しない恋です。
まずは、こちらから相手に好きという行為を示します。
最初は相手のことを思って、そうしていることですが、やはりどこかで見返りを期待してしまいます。
「これだけ尽くしているんだから、私のことを好きになってくれるはず」
そう思い、知らず知らずのうちに見返りを求めてしまっているのです。
相手が自分のことを好きになってくれないと、いつまで経っても幸せにはなれません。
しかし、本当に相手のことが好きだという本物の愛があれば、見返りは求めないはずです。
相手が好きになってくれることを条件としていますから、残念ですが片思いは駆け引きの愛であって、本当の愛ではないのです。
片思いは「愛」ではなく「恋」という低いレベルになります。
では、本当の愛は、どのような形を指すのでしょうか。
本当の愛とは(4)のギブ&ギブの「無条件の愛」のことをいいます。
これこそが、本当の愛の形です。
自分が好かれていなくても、相手のことは愛しているという状態です。
相手があなたのことをどう思っているのかは関係ありません。
あなたは、常に相手のことを好きだという状態です。
本当に相手のことが好きなら、見返りは求めません。
相手のことを愛しているがゆえに、ただ相手に愛を与え続けます。
たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんを育てる親は、無償の愛があってこそできることです。
無条件の愛があるから、育てることができます。
赤ちゃんに、いくら愛を与えても、お返しをしてくれるわけではありません。
しかし、わが子ですから見返りはなくても、昼夜を問わず一生懸命に世話ができます。
本当に愛があるなら、この「ギブ&ギブ」という無償の愛を表現できるのです。
このレベルにまで達すると、人とぶつかり合うことはありません。
見返りを求めませんから、相手に恨みを抱いたりしません。
与えることで、自分が嬉しくなり、豊かになります。
人付き合いがうまい人には「ギブ&ギブ」という愛が感じられます。
プレゼントをしたり、年賀状を出したり、進んで人を助けたりなど、見返りを求めず人に与えようとします。
無償の愛を持って人に接する人は、人付き合いがうまい人なのです。
よく片思いを、愛の一種と考える人がいます。
たしかに愛といえば愛になりますが、厳密にいえば「駆け引きの愛」になります。
本当に愛について考えると、片思いは的が外れてしまうというところが正直なところです。
無意識のうちに「見返り」を求めてしまうからです。
「え~、どういうこと? 片思いは、本当の愛とは違うの?」
そういう声が飛んできそうですね。
本当の愛とは、異なります。
本当の愛があれば、相手が幸せなら、十分にそれで良いと考えるはずです。
本当の愛とは「ギブ&ギブ」です。
見返りを求めている愛は、本当の愛ではなく「駆け引きの愛」になります。
たとえば、あなたが花を育てるときに、見返りを求めるでしょうか。
あなたが花を育てるとき、見返りを目当てに育てますか。
いいえ、見返り目的では育てないはずです。
花は、無条件の愛がなければ育てることができません。
もし、見返り目当てで育てようとしても、見返りがありませんから、挫折してしまいます。
花を育てるためには、ギブ&ギブしかありません。
見返りを求めない、本当の愛が必要です。
見返りがないにもかかわらず花を育てることができる人は、本当に愛がある人なのです。
愛ある人は、花が成長する姿を見るだけで、ハッピーになります。
これを、恋愛に置き換えて考えてみましょう。
片思いは、心のどこかで「私のこと、好きになってくれないかな」と期待しているはずです。
両思いを願っているはずです。
つまり「見返り」を期待しているのです。
本当の愛ではなく、駆け引きの愛になります。
自分は相手のことを十分に好きですが、相手も好きになってくれないと成就できない願いです。
片思いは本当の愛とは違うことなのです。
しかし、本当の愛は、見返りがあって成就するわけではありません。
あなたが相手のことを好きになり、愛した瞬間に、愛は語れるのです。
花を育てるときには「よし。大切に育てるぞ!」と意気込んだ瞬間から、混じり気のない純粋な愛が発生しています。
花を育てるように、本当に相手のことが好きなら、元気になっている姿を見るだけで十分に幸せであるはずです。
花を育てることができる人は、大きく元気に成長する花の姿を見ることが、自分の幸せであると感じます。
人付き合いの究極は、無償の愛を持って接することです。
ギブ&ギブによって、見返りを求めない愛によって、人との関係が向上します。
しかし、あなたは、心の中ではこう思っているのではないでしょうか。
「無償の愛が良いことくらい知っている。
それができないから困っているんだ」。
たしかにそうです。
考えてみれば当たり前のことですが、ギブ&ギブはなかなかできることではありません。
いくら無償の愛が良いことだと頭ではわかっていても、現実ではなかなかそのように体が動きません。
なぜでしょうか。
他人だからです。
人は誰でも、まず自分のことを考えます。
自分が幸せになることなら一生懸命になりますが、他人のことは他人の事情ですから、自分には関係ありません。
冷たくなってしまうのです。
もし人のことを考えようと思っても、見返りによって自分に跳ね返ってくる「ギブ&テイク」を求めます。
ギブ&ギブは、やはり不可能なことなのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
ちょっと想像してみましょう。
自分が産んだ赤ちゃんには、見返りを求めず接してしまいますよね。
自分とは別の人間ですが、自分が産んだ子には強い愛情を抱きます。
自分に関係あるからです。
自分のおなかを痛めて産んだ子は、自分の分身のようなものです。
実際に個体としては別々でも、自分と赤ちゃんとの間に境界線はなく「2人で1つ」という意識があるためです。
自分に強く関係しているからこそ、他人でも自分のことのように接することができます。
親子の関係には、境界線はありません。
境界線を意識していない親子ほど、幸せな家庭を築いています。
みんなで1つと考えているからです。
だからこそ、ギブ&ギブという無償の愛を持って、接することができるのです。
あなたが会社や学校の人間関係において、無償の愛を持って接しようと思っても、なかなかそれができません。
自分と他人との間に、境界線を引っ張っているからです。
関係ないと思っているからです。
関係ないと思うのをやめればいいのです。
「関係ある」と思えばいいのです。
私たちの先祖をたどれば、いずれ1つの原点にたどり着きます。
私たち人類が存在しているのは、地球があってこそです。
地球があるのは太陽系があってこそです。
太陽系があるのは、銀河系があってこそです。
すべてがあるのは、宇宙が存在しているからこそです。
あなたとそれ以外という境界線は、実は幻想であり、本当はすべてが1つなのです。
ただ原子の組み合わせや密度によって、世の中にはいろいろあるように思えるだけです。
大いに関係しています。
すべてがあなたに関係し、元をたどれば原点は同じなのです。
ひもがもつれて、たくさんのひもが絡まっているように見えても、ほどいてみれば実は1本のひもだった、というわけなのです。
大いに関係しているという真実に気づくと、境界線はそもそも引けないし、幻想なのです。
「世の中、お金がいちばん大切だ」
こういうことを言う人を、ときどき見かけます。
たしかにお金は、生きていくためには必要不可欠なことです。
お金がなければ食べるものも、着るものも、住むところも手に入れられません。
お金があれば、どんなことも自由に手に入れられます。
何でも叶えることができます。
人は「お金、お金」と執着し、お金ばかりに目を向けてしまいがちです。
なぜお金をそんなに欲しがるのでしょうか。
お金を通して得られる自由が欲しいからです。
満たされたい欲求があるからです。
愛が欲しいからです。
たとえば「お金はいりませんから、あなたの願いを何でも叶えます」というなら、お金はもはや、いらないはずです。
食べるものも着るものも、どんなサービスもただで提供しますよというなら、お金はもはや必要ないと考えてしまいますよね。
自由を手に入れたいから、お金を欲しがってしまうのです。
自由を手に入れて、満足を得て、心を満たしたいからです。
人は誰しも、愛を欲しがっているのです。
「お金が欲しい」と言っている人は「愛が欲しい」と言っていることと同じことなのです。
「お金が欲しい」と考えている人ほど、親子関係がもつれていたり、人間関係が悪かったりしています。
人との関係がうまくいかず、愛に触れていないため、愛の代わりとして、お金を求めるようになります。
日常では愛に触れることが少ない。
↓
心の中で満たされない。
↓
だからお金によって自由を手に入れ、心を満たしたい。
このように考えて、最終的に「お金がいちばん」と勘違いをしてしまうのです。
お金は、愛の代替品にすぎません。
たしかにお金は一時的な快楽や喜びを与えてくれますが、深い満足や喜びまでは手に入れられないのです。
本物の愛によってでしか、深い満足や喜びを得ることはできません。
お金ばかりに執着した人が行き着く結末は、どんなことでしょうか。
汚職事件、賄賂、遺産相続。
「愛」が不足している人が、愛の代替品であるお金を必死になって手に入れようとして引き起こす事件です。
すでに愛にあふれている人は、事件を起こしたりしません。
すでに満たされているからです。
満たされているから、愛の代替品であるお金に対して、強い執着はないのです。
事件を起こす人は、必ずと言っていいほど人間関係がうまくいっていません。
家族との仲が悪かったり、友人との人間関係がうまくいっていなかったりします。
愛の代わりに、お金を求めてしまうのです。
お金があれば、何でも自由が手に入ります。
親子関係がうまくいかず、人との関係もうまくいかず、だからお金を持って自由になりたいと願うのです。
お金は愛とそっくりの作用を持ちますが「お金=愛」というわけではないのです。
お金は単なる、愛の代替品なのです。
大人になって社会に出ると、少なからず利益損得を考えて行動するようになります。
友人をつくるとき。
仕事を選ぶとき。
恋愛をするとき。
できるかぎり自分にとってメリットがあり、得をするような人と知り合いになり、関係をもちたいと考えます。
ですが、利益損得を第一に考えてしまっては「自分が本当に好きかどうか」が見えなくなります。
利益損得は、愛を無視した考え方です。
愛を中心に考えるためには、自分に正直な生き方が最も良いのです。
友人をつくるときも、仕事を選ぶときも、好きな人を見つけるときも、自分が好きだからこそ、近寄っていくことです。
自分が好きだと感じることほど、素直な自分からの声はありません。
好きだからこそ、愛を持って接することができます。
好きだからこそ、愛が湧き出てくるのです。
好きでもない友人と、心から仲良くし合えるでしょうか。
好きでもない仕事をして、本当に心から打ち込めるでしょうか。
好きでもない人とお付き合いをして、本当にわくわくするでしょうか。
利益損得を中心に考えると、いつの間にか愛が消えてしまうのです。
愛は、好きなことを中心に考えるときに表れます。
自然と出てきます。
心の中から、自然と湧き出てくる温泉のようなものです。
利益損得という磁石に引き寄せられるのではなく、好きという磁石に引き寄せられることが大切なのです。
愛を感じ、受け止めるためには、素直さが必要です。
素直になるからこそ、ありのままの感情を受け止めることができるようになります。
無理やりかっこつけたり、意地を張っていると、なかなか愛を感じることができません。
他人からの愛の言葉を、はじくことになってしまうからです。
人からの言葉を素直に受け入れず、意地を張っていると、成長することもできません。
「ここは、こうしたほうがいいよ」
「もっと勉強したほうがいいんじゃない」
中には、言われてむかっとくる言葉もあることでしょう。
しかし、むかっとして受け入れず、無視をしてしまえば、成長はありません。
人からのアドバイスは、往々にして「愛の言葉」です。
あなたを思って、口にしていることだからです。
成長を願って、わざわざ言ってもらっている貴重な一言です。
あなたのためになる言葉と、あなたが嫌う言葉は、往々にして同じ言葉であるものです。
耳に痛い言葉ほど、実は裏を返せば、愛のあふれる言葉に一変します。
むかっとして聞き入れないのではなく「そうか、なるほど」と素直になって受け入れることが大切なのです。
最も成長できる姿勢であり、生き方なのです。
誰でも自分のことを大切にしてくれる人を、大切にしようと思います。
自分に対して愛を注いでくれる人は、自分のことを愛してくれていると感じるからです。
親や兄弟、友人などは、代表的な愛を注いでくれる存在です。
自分のことを大切にしようとしてくれますから、あなたも相手を大切にしようとします。
ということは、ちょっと「あること」に気づきませんか。
1人を大切にすれば、1人から大切にされます。
みんなを大切にすれば、みんなから大切にされるということです。
あなたは、自分を大切にしてくれる人を大切にしようとしますよね。
あなたに限らず、ほかの誰もが同じように考えています。
あなたを大切にしてくれる人だけを大切にするのではありません。
出会うすべての人を大切に接すれば、すべての人が、愛を持って接してくれるようになります。
みんなを大切にすれば、みんなから大切にされるわけです。
ある特定の人にだけ、優しく接するのではありません。
すべての人に平等に愛を持って優しく親切に接することが大切です。
みんなが、愛を注ぐ対象になるのです。
「愛を注ぐ」
「愛を持って接する」
「愛に満ちあふれる」
これらはよく耳にする言葉です。
抽象的な言い方であり、誰しもそう接したいと願っていますが、具体的にどうすればいいのかがわかりません。
具体的に愛を注いだり、愛を持って接したりするとはどんなことを言うのでしょうか。
「笑顔になって接する」ということです。
笑顔で話しかけたり、笑顔で挨拶をしたり、笑顔で人を助けたりすることです。
挨拶や、話しかけることは、笑顔になっていなければいけません。
笑顔が伴っていないと、暗い表情のため、危ない人に見えます。
笑顔になって接するだけで、すべての行動が愛らしく見えてくるようになります。
にこにこしている人を見ると「何かいいことがあったのかな」「楽しそうだな」「嬉しそうだな」と思ってしまいますよね。
笑顔になるだけで、愛が満ちあふれているように見えてきます。
実際にそうでなくても、そう見えてきますし、笑顔になっていると本人は本当にそうなってくる作用があります。
愛は、笑顔なしでは語れないのです。
愛とは「人を好きになること」と思っているのではないでしょうか。
たしかにそれも大切です。
ですが、答えの1つにすぎません。
本当の愛とは「ある特定の人を好きになること」ではなく「すべてを好きになること」をいいます。
愛とは「個と全体の一体化」といいました。
あなたが、周りと一体化することが、愛の形ということです。
私たちは、元をたどれば、1つです。
世の中には、森羅万象、さまざまなものがあるように思えますが、厳密にいえば「どれも宇宙」です。
「宇宙」という「1つ」しかないのです。
幸せについて考えるとき、この「個と全体の一体化」を考える必要があります。
それが、自然に対して合理的だからです。
宇宙の法則に従う形になるからです。
1人だけを好きになるのでは「個と個との一体化」になります。
「個と全体の一体化」を意識するなら、1人だけでなく、すべてを好きになることが大切なのです。
すべての人を好きになれば、何をするときにもハッピーを感じることができるようになります。
愛とは、全体と一体化することです。
1人ではなく、すべてを好きになることが大切なのです。
愛のあふれる人になる方法は、実は誰しもすでに知っています。
どれも当たり前のことであり、ここで書くまでもなく、あなたもすでにこれらが大切だということはわかっているはずです。
さて、問題は次なのです。
「それはわかっている。それができないから困っているのではないか!」
そうです、そうなのです。
みんなと仲良くすることは、誰しもが頭ではわかっていることです。
どうすればいいのかも、実はわかっています。
しかし、それが、できないから困ってしまうのです。
頭ではわかっていても、なかなかできないから、私たちは悩むのです。
学びの世界には、限界があるということです。
プラス思考という考え方があります。
プラス思考が良いということは、私が言わなくても、みんな知っていることです。
わかっていることです。
なら、みんな今ごろはハッピーであるはずですよね。
しかし、なかなかそうした現実ではありません。
みんななかなかハッピーになれず、苦しんでいるのです。
「プラス思考になろう、なろう」と思えば思うほど、実際にはそう思っていないということです。
思っていないのに、思い込もうとしているだけです。
プラス思考を意識し、一時的に明るく考えることができたとしても、少し気を抜けばまたマイナス思考へと戻ってしまいます。
元がマイナス思考ですから、本来あることを変えようと思っても、なかなかできないのです。
こう考えましょう。
頭で考えるのではなく、体験を通して体得するのです。
私はこれまでにたくさんの本を読んできましたが、どれも頭に染み込んだ知識ばかりです。
頭で学んできたことは、頭でわかっているばかりで、生活にまで生かせる形にはなっていませんでした。
自分の人生を振り返り「これは勉強になったな」という瞬間は、いつも現実に起こった行動ばかりでした。
もちろん本から学ぶことも大切ですが、やはり「頭で理解しただけ」になるのです。
人付き合いは「笑顔で、元気で、優しく」なんていうことは、頭では、みんなわかっています。
ですが、本当に人付き合いを向上させるためには、実際に人と話して、あれこれ体験してみることがいちばんなのです。
体験を通して、初めて本当に習得ができるのです。
活用できる形になるのです。
人間社会の中に揉まれながら「こういうときは、こうしたほうがいいな」「あの人の真似をしよう」と学べます。
生活に生かせる本当の知恵は、頭ではなく、体を通して覚えることが必要です。
それが最も実生活に生かせる形になるのです。
悪口を言うことは、簡単なことです。
それでいて、すっきりします。
即効性があります。
麻薬のようです。
悪口を言わない努力より、悪口を言ってしまうほうが、簡単であり、エネルギーも必要としません。
ちょっと努力を怠ると、すぐ悪い考えのほうに偏ってしまいます。
陰で誰かの悪口を言いながら大笑いすると、すっきりします。
しかし、そんなことばかりをしていると、人の悪いところしか見えてこなくなります。
麻薬のように、一時的な快楽のために、そればかりをしていると、いつの間にか体が毒されます。
タバコのように依存性があり、後になって悪化するにつれて、やめられなくなり、いつの間にか汚れます。
タバコが肺を汚してしまうなら、悪口は心を汚してしまうものです。
悪口を言わないようにするためには、努力が必要です。
意識的な行動が必要です。
タバコをやめるためには努力と行動が必要であるように、悪口という習慣がついている人もやはり努力と行動が必要なのです。
意識をしないと、つい悪口のほうが偏ってしまいます。
やめられなくなります。
いつしか心が汚れ、他人の悪いところしか話ができなくなり、あら探しをしてしまうのです。