今回のお話は、自分で驚きました。
私はまだ、父親になったことはありません。
しかし、不思議なことに、今回のお話はとても書きやすく、あっという間に書き終えてしまいました。
家庭の中で学ぶ大切なことの1つに「優しさ」があります。
優しさは、本から学ぶことも、テレビを見て学ぶことでもありません。
家庭の中で学ぶことです。
尊敬される父親とは「熱心に教える姿勢」と「放任できる姿勢」の両方を持ち合わせています。
相反する2つの姿勢ですが、実は2つで1つなのです。
一方だけではバランスが悪く、必ず両方がそろってこそ、教育は成り立ちます。
父はもちろん大人ですから、世の中のことを知っています。
指導そのものは間違っていませんが、教え方が大切なのです。
尊敬できる父親とは「あれをやれ。これをやれ」とは指示しません。
「積極性を学ばせる」ということは、なかなか難しいテーマです。
積極性も、本やテレビで学ぶことではありません。
親が積極的になることで「え! こんな恥ずかしいことをしてもいいの!」と思い、子どもも積極的になります。
子どもに「勉強しろ」という親は多いものです。
子どものためを思って口にするのはわかるのですが、それにしてもあからさまです。
父親は大人ですから、もう少し工夫を凝らして育てることが必要です。
「父親としての威厳が欲しい」
そういうお父さんのために、まずこのポイントを押さえておきましょう。
寡黙になることです。
どれだけ物静かな父でも、感謝の言葉まで省略するのは良くありません。
感謝の言葉まで省略してしまうと、威厳より、人としての当たり前の人格が失われます。
感謝をまめにする父を見て、子どもは「お父さんのためにもっと頑張りたい」と考えるようになります。
学校では、普段は優しい先生ほど、怒ると怖いものです。
「普段は温厚なのにどうしたのだろう」
一瞬、生徒は困惑します。
父親の威厳は、寡黙になるほど出てきます。
ただし、寡黙になるだけでは不十分です。
寡黙になると同時に、行動の量を増やすことが必要です。
ときどき「家族のために、働いているんだぞ」という言葉を口にするお父さんがいて、驚くことがあります。
口にしている側は「当然だ」「当たり前だ」と思っているようですが、耳にする側には違和感を覚えます。
「家族のために」という言葉は、他人に責任を押し付けている感じがするからです。
私の父は、現役のころ、仕事の関係からいつも帰宅は夜遅い時間でした。
夜の9時や10時は当たり前。
時には、深夜1時や2時を回ることさえあります。
「守破離」という言葉を聞いたことがありますか。
不白流茶道を開いた川上不白が、著書『不白筆記』の中で、茶道の習得段階を記した言葉です。
茶道における成長段階を「守」「破」「離」という3段階に分けて、説明しています。
父に反抗する子どもは、父を超えようとする姿です。
父より素晴らしい手本を見つけたから、父の言うことに反抗しようとします。
それが「反抗期」です。
子どもはある程度成長すれば、親から離れようとします。
茶道の教えである守破離と同じように、成長した子どもは最終的に親から離れようとします。
しかし、親離れをしたい子どもがいても、子離れをしたくない親なら問題です。
父として子どもにできることといえば、手本を見せることです。
前向きな姿勢という手本です。
手本を見せることでしか、子どもに対して姿勢、威厳をアピールすることはできません。
私が今、父に感謝していることは、私を手放してくれたことです。
高校卒業後、アメリカへ留学したいとき、許してくれました。
日本に帰り、今後は東京で就職したいときも、許してくれました。
子どもから見ると、すぐ怒鳴る父は、尊敬の対象ではなくなります。
間違ったことをしたからとはいえ、怒鳴って怒るのはいけません。
感情に振り回されている姿に見え、大人らしくないように見えます。
子どもをすぐ怒鳴る父親は、尊敬されなくなります。
そうはいえ、子どもを怒らないわけにはいかない場合もあることでしょう。
そんなときには、怒鳴ることで教育するのではありません。
「自分は仕事をしているから、子育ては妻に任せればいい」
「男は仕事さえできていればいいんだ」
そのように考えているお父さんは、要注意です。
父親は、仕事ばかりしている自分は、子どもからかっこよく見られていると思っています。
しかし、子どもは、仕事ばかりしている父親を、かっこ悪いと思います。
ここで、双方のギャップが生まれます。
子どもは、父の車の運転をよく見ています。
車の運転で見せる姿が父親の本性だと思っています。
ハンドルを握ると性格が変わる人がいます。
子には、自分の両親に対して誇りを持ってもらわなければなりません。
自分の両親がばかだと、そんなばかな親に育てられている自分もばかなんだと思います。
とにかく子どもは、自分の両親をいちばん大切な存在として見て、考えます。
「叱る」という教育のさらに上に「褒める」という教育があります。
叱ることは、間違ったときに感情的にならず、正しさを教えることです。
褒めるということは、間違ったときには、良いところをピックアップして褒め、悪いところも一緒に直してもらう方法です。
大胆なたとえになりますが、教育のうまい親とは、調教師とよく似ています。
動物を調教するプロを思い出しましょう。
動物を、叩いたり、殴ったり、痛めつけたりして教育しようとしません。
褒めることは、子どもも親も元気になる教育方法です。
しかし、褒めることが良いことだと頭ではわかっているが、なかなか褒めることで教育できない親が多い。
なぜでしょうか。
「勉強、頑張れ!」
「運動会、頑張れ!」
「部活、頑張れ!」
私の父は、どんな選択であろうと、子どもの意思なら何でも許してくれました。
昔から、よくこんな言葉をかけてくれました。
「貴博の好きなようにやれ」
「父親は、子どもから嫌われることが仕事なのよね」
以前、行きつけの美容院のおばさんが小さな声で言った言葉に、私は妙に納得してしまったことがあります。
私の母と同じくらいの年齢のおばさんでした。
子どもを手放すというのは、最も親がしたくないことです。
最愛のわが子ほど、いつまでも手元に置きたいと思います。
しかし、一方で、手放すことができる親は、本当に愛の深い親でもあります。
今回のお話は、自分で驚きました。
私はまだ、父親になったことはありません。
しかし、不思議なことに、今回のお話はとても書きやすく、あっという間に書き終えてしまいました。
ピアノを弾いているかのように、すらすら書けてしまった。
なぜこんなにすぐ書けたのかと、自分でも驚きました。
すらすら書けたことには、理由があります。
今回のお話は、自分の父親を想像しながら書いたからです。
父は、子である私が見ても尊敬できる父親です。
またそうなりたいと思う手本です。
尊敬できる父親像を、文章として書き残しておきたい思いから書き始めましたが、それにしてもすぐ書き終えてしまいました。
なぜ書きやすかったかというと「客観的だったから」です。
主観的になるより、客観的だからこそ見えることがあります。
子どもという客観的な立場だから書けるだろうと判断して書き始めましたが、その予想は的中し、思ったより書きやすかった。
子である私から尊敬できる父を見ると、客観的になれるからです。
父としての言葉、行動、考え方は、父親本人は主観的になっていますから、当たり前と思ってしまい、なかなか見えないものです。
しかし、教育される子である私から見ると、はっきりそれが「見える」のです。
客観的になり、受け身になるほうが「どのようなところが尊敬できるか」「学びがあるのか」が具体的に見えてきます。
主観的になるより、客観的になるほうが、その動きははっきり見えるのです。
運動会では、走っている自分の姿は自分では見えませんが、応援している人からは、その動きがよく見えます。
同じように、教育する立場より、教育される立場のほうが、よくわかります。
尊敬される父親は、父親本人からは判断できません。
教育される側が判断することです。
育てられた子である私からは、よくわかったから、すらすら書けたのでした。
家庭の中で学ぶ大切なことの1つに「優しさ」があります。
優しさは、本から学ぶことも、テレビを見て学ぶことでもありません。
家庭の中で学ぶことです。
では、具体的に、家庭のどこで学ぶかというと、父と母を手本として見て、学ぶのです。
「母のことを大切にしている父」と「父のことを大切にしている母」の2人を見て、子どもは優しさの本質について学びます。
私の父は、いつも母のことを気にかけている人です。
レストランへ食事に行ったときにも「お母さんは何を食べるの」と、優しく話しかけます。
自分のメニューはまだ決まっていないのに、母のことを気にかけます。
店員さんに「皿もう1つ持ってきて」とお願いして、母の分まで取り分けます。
母も、普段から父を気遣う人でした。
私と母が、デパートへ洋服を買いに行ったときのことです。
母は自分の洋服を買いにデパートへ行ったのですが、店内を見て回るうちに「お父さんに似合うかな」と、私に聞き始めます。
自分の服をまだ選んでいないうちから、父が似合う服を見つけて、子である私に「似合うかな」と聞いてきます。
「お母さんは自分の服、買いに来たんでしょ」と私は言います。
母は自分の服を買いに来たのに、父の服を選んでいる母を見て「本当に父のことを思っているのだな」と感じたものです。
思い合ったり助け合ったりしている夫婦を見て、子どもは、優しさの表現方法について学びます。
父は直接、子どもに優しさを学ばせることはできません。
母も直接、子どもに優しさを学ばせることはできません。
父は母に優しく、母は父に優しくしている姿を見せるだけでいいのです。
そういう姿を見て、子どもも優しさを知り、理解して、真似をしたくなるようになります。
いつも母のことを気にかけている父親を見て、私も優しさを学んでいったのでした。
尊敬される父親とは「熱心に教える姿勢」と「放任できる姿勢」の両方を持ち合わせています。
相反する2つの姿勢ですが、実は2つで1つなのです。
一方だけではバランスが悪く、必ず両方がそろってこそ、教育は成り立ちます。
子どもが「なぜ?」と質問してくれば、熱心に教えます。
もちろん父のほうが年上ですから、知っている量は当然多い。
知っていることをできるだけわかりやすく説明しようとします。
しかし、子どもが納得して、行動し始めると、今度は放任します。
「自分の頭で考え、自分で行動させる」ということも、また学んでほしいからです。
自分の意思で行動させ、体験量を増やすようにします。
子どもは興味を持って質問しますが、ある程度の知識の土台ができると、今度は自分で調べたり、作ったり、試してみたりします。
その段階までくると、父親は「教育魔」から「見守る役」へと変身するのです。
私の父は、機械関係の仕事をしていたため、よく会社で使っている部品などを見せてくれました。
仕事の続きを家でするため、会社で使っていた部品を、私も一緒に見たり触ったりしたものです。
「これ何? これは何に使うの?」と、父を質問攻めにした記憶があります。
機械は父の専門ですから、熱心に丁寧に、わかりやすく教えてくれます。
一つひとつの部品の意味がわかり、役割を理解すると、いらなくなった部品をもらい、私が自分勝手に組み立てたり実験したりします。
その段階になると、一転して、父は何も言わなくなるのです。
私をほったらかしにして、好き勝手にさせます。
それは、父からの愛の表現だったのです。
話を聞いているだけでは本当に理解できないからこそ、自分で見たり触ったり、組み立てたりします。
本当に学んでほしい気持ちからです。
その父の放任のおかげで、私は自分の好きなように学べて、自然に伸びていきました。
もし、父が教育魔のままなら、私は過剰な教育に嫌気が差していたことでしょう。
父が子のやりたい気持ちを尊重して、放任させてくれたからこそ、自然な才能が伸びていったのだと思います。
花はまず水が必要ですが、水をやりすぎては、今度は成長できなくなります。
ある程度、水をやれば、ほったらかしのほうが、成長します。
水が欲しくなれば、そのときにまた与えればいいのです。
父はもちろん大人ですから、世の中のことを知っています。
指導そのものは間違っていませんが、教え方が大切なのです。
尊敬できる父親とは「あれをやれ。これをやれ」とは指示しません。
「~しなさい!」「~をやれ!」という言葉は、強い命令言葉です。
子どもを、自分の型にはめさせようとする言葉です。
「~しなさい!」「~をやれ!」という言葉を使って子どもを教育する親は、子どもを自分の持ち物として考えています。
「そうでなければならない」「そうしないといけない」という強い考えから、子どもを自分の理想どおりになるようにしているのです。
これは伸びない育て方です。
いえ、場合によっては、伸びるどころか非行に走り始めるでしょう。
非行に走っている子どもの親には、意外なことに先生や校長先生のような教育者が多い。
教育者は、子どもにも同じように育ってもらうよう熱心さが過ぎて、型にはめさせる親が多いのです。
自分の理想どおりに育つよう、型にはめ込ませると、往々にして子は伸び悩みます。
花を育てるために、無理やり茎を引っ張ったり、曲げたり、折ったりしていることと同じです。
「こうしたほうがいい」と思ってしていることが、逆に成長を妨げているのです。
尊敬できる父親は「こうしろ」と命令するのではなく「こうしたほうがいいよ」とアドバイスをします。
命令は子どもを萎縮させ、アドバイスは子どもを伸ばせます。
適切な選択や方法を言い、その後どうするかは、子どもの判断に任せます。
正しい選択をすれば、子どもは喜ぶでしょう。
間違えた選択をすれば、子どもが苦しむでしょう。
快感も苦痛も、共に味わいながら、子どもは正しい人生の歩み方を体感していくのです。
子どもの判断に任せ、子どもが痛い経験をすることで、自然と伸びていきます。
伸びるように伸びたとき、子どもの才能が最も表面化するのです。
「積極性を学ばせる」ということは、なかなか難しいテーマです。
積極性も、本やテレビで学ぶことではありません。
親が積極的になることで「え! こんな恥ずかしいことをしてもいいの!」と思い、子どもも積極的になります。
親が積極性を見せていくことで、子どもも同じように真似をするようになるのです。
たとえば、挨拶を積極的にする親の子は、同じように挨拶を積極的にするようになります。
すれ違う人に挨拶をしている親を見て「初めての人にも話しかける」ことを学び、子も同じように真似するからです。
「しなさい」という命令で教えるのではなく、親が積極的になっていることで、子どもにも生き方が伝わるのです。
積極的な親からは、積極的な子が育ちます。
積極的な子どもの親は、決まって積極的です。
親が積極的な性格であり、そんな環境にいたから、子どもも同じように積極的になったのです。
子どもに「勉強しろ」という親は多いものです。
子どものためを思って口にするのはわかるのですが、それにしてもあからさまです。
父親は大人ですから、もう少し工夫を凝らして育てることが必要です。
ここで「ある悩み」が生まれます。
子どものことばかり考えていると、父親の楽しむ時間がなくなります。
父親ばかりが楽しむ時間だけだと、今度は子どものことを考える時間がなくなります。
偏りが生まれがちな教育に、うまい方法はないのでしょうか。
父親も楽しみ、同時に子どもも育てるうまい方法があります。
それが家族旅行なのです。
家族旅行は、旅行という言葉から簡単だと思うでしょうが、これはお互いにとって楽しみがあり、学びがあることなのです。
家族旅行を計画すると、その大変さがわかり、親が成長します。
子どもは旅行先でさまざまなことを目にして、経験が増えます。
同時に親にとっても、新しい経験は成長につながります。
それでいて、家族の絆、思い出の共有をつくれます。
家族旅行は、親と子が同時に成長できる、欠かせない機会です。
家族旅行の多い家族で、家族と仲が悪い人を聞いたことがありません。
家族で一緒に旅行をすると、親は初めてのシチュエーションで臨機応変に対応する姿を見て、子は親を尊敬するようになります。
私も家族で旅行をしたときには、行ったこともないところで、現地の人とやりとりをする親を見て「すごいな」と思ったものです。
初めての人と話をするときは怖いものです。
旅行先で親がいろいろな場所へ行き、やりとりをしている姿を見て「さすが大人だ」と思うのです。
家族旅行は、尊敬される絶好の機会なのです。
「父親としての威厳が欲しい」
そういうお父さんのために、まずこのポイントを押さえておきましょう。
寡黙になることです。
威厳は父親として必要なことですが、まず口数を減らすことから始めましょう。
口数が減るだけで、言葉一言の重みが増して、強くなります。
威厳のない父親は、決まって口数が多い父親です。
細かいことまでぺらぺらとよく話す父親は、威厳を失っています。
たくさん話すことで、指導するときに言葉の重みがなくなってしまうからです。
子どもに、甘く見られるのです。
普段から口数の多い父親は、話す分だけ威厳がなくなると思いましょう。
普段は、あまり話さない父親になることです。
口を開くときには、本当に重要なときのみにしましょう。
父が話すときには、いつも緊張が走るようになります。
その緊張感が、父親としての威厳に変わります。
渋い俳優で知られている人は、決まって口数が少ないものです。
しかし、一方で話すときには、責任の重い言葉を放ちます。
それがより輝きとして変わっているのです。
どれだけ物静かな父でも、感謝の言葉まで省略するのは良くありません。
感謝の言葉まで省略してしまうと、威厳より、人としての当たり前の人格が失われます。
感謝をまめにする父を見て、子どもは「お父さんのためにもっと頑張りたい」と考えるようになります。
子どもとしては、感謝されると単純に嬉しいものです。
親からの愛情を欲しがります。
感謝をしてくれる父なら、もっと感謝されたくなり、子どもは家族のために行動するようになります。
親子間の不和が問題になっている家庭では、必ず感謝の言葉が少ないことが特徴です。
感謝の言葉がないと、子どもは親とのコミュニケーションが少なくなっていく一方です。
「ありがとう」と言うと、必ず返事が返ってきます。
「ありがとう」と言われると「どういたしまして」と返事するしかありません。
そこでひとつの会話のキャッチボールができているのです。
どんなに威厳のある父親でも、感謝のできない父親は失格です。
父親から家族とのコミュニケーションを断ってはいけないのです。
学校では、普段は優しい先生ほど、怒ると怖いものです。
「普段は温厚なのにどうしたのだろう」
一瞬、生徒は困惑します。
しかし、実は、優しい先生が怒るほど怖くなるのは、当然です。
愛が深いからです。
「優しさ」と「怒り」は、同じ愛の表現だからです。
愛があるから優しくなり、愛があるから、あなたのことを本気で怒ります。
優しさと怒りは真逆ですが、元は同じ愛です。
愛のある先生ほど、優しく、怖いのです。
仏像の優しい表情と、毘沙門天の険しい表情は、正反対の表情ですが、どちらも愛の表現です。
尊敬される親ほど、普段は優しいものです。
愛があるからです。
しかし、一方で、怒るときには怒ります。
愛があるからです。
決して、子のことが嫌いだからではありません。
子どものことを大切に思っているからこそ、普段は優しく、怒るときには怒るのです。
父親の威厳は、寡黙になるほど出てきます。
ただし、寡黙になるだけでは不十分です。
寡黙になると同時に、行動の量を増やすことが必要です。
口数が少なくなれば、どう子どもを教育していくのかという疑問が湧くのではないでしょうか。
言葉ではなく行動で指導するのです。
「有言実行」という言葉があります。
口にしたことを、実際に実行する意味です。
もちろん有言実行でもいいのですが、当たり前なのです。
尊敬される父親になるためには、さらにレベルを上げて「不言実行」を心がけましょう。
何も言わず、行動を通して表現するほうが、威厳を感じます。
父の威厳は、何も言わずしてしっかり実行をするときに感じます。
「口先だけではないのだ」と、子どもはしっかり感じ取るからです。
「勉強をしなさい」という父親が、勉強をしていなければ、子どもはどう感じるでしょうか。
「勉強していない親に言われたくないよ」と思いますね。
挨拶をしない親に「挨拶をしろ」と言われても、説得力がありません。
親が見せていくのです。
父親が新聞を読んだり、本を読んだりしている姿を見れば、子どもも自然と勉強するようになります。
親が挨拶をしていれば、子どもも挨拶をするようになります。
子どもは、親のしていることを真似したがるものなのです。
ほかに手本がいませんから「親のしていることは間違いない」という認識があります。
勉強する親の子どもは、必ず勉強するようになるのです。
ときどき「家族のために、働いているんだぞ」という言葉を口にするお父さんがいて、驚くことがあります。
口にしている側は「当然だ」「当たり前だ」と思っているようですが、耳にする側には違和感を覚えます。
「家族のために」という言葉は、他人に責任を押し付けている感じがするからです。
偉そうな感じです。
「私(子ども)は頼んでいない。それより自分のために働けば?」
そう思います。
偉そうに言われると、子どもとしても「こっちだって別に頼んでいない」と、つい反発心が生まれてきます。
「家族のために働いているんだぞ」という言葉は、実際はそうでも、言ってはいけない言葉なのです。
言った瞬間から、父としての威厳は下がります。
子どもは「家族のために働かされているかわいそうで哀れな父」として映るようになります。
好きでもない仕事を、つまらなさそうな顔をして仕事をしている姿は、子どもは「尊敬」や「威厳」として見ません。
「かわいそう」というふうに見てしまい、哀れな雰囲気が漂う父として映ってしまいます。
私の父は、現役のころ、仕事の関係からいつも帰宅は夜遅い時間でした。
夜の9時や10時は当たり前。
時には、深夜1時や2時を回ることさえあります。
いつも帰りが遅く、仕事もそれだけハードのようでした。
そんな父でしたが、母の誕生日や家族の記念日には、夕方7時には帰ってきたものです。
家族のために、仕事を早く切り上げて、帰宅してくれていたのです。
いつも帰りが遅い父が、記念日に限って早く帰る姿を見て「家族を大切にしている」ことが子どもの私にも見てわかりました。
やはり仕事の関係から、帰宅が遅くなったりするのは仕方ありません。
しかし、誕生日くらいは早く家に帰って、一緒に祝う時間をつくりましょう。
大切なことです。
いつもは帰りが遅いのに、家族の記念日に限って早く帰る父を見て、子は「仕事以上に大切なのだ」という認識が生まれます。
そういう父を、子は尊敬します。
「守破離」という言葉を聞いたことがありますか。
不白流茶道を開いた川上不白が、著書『不白筆記』の中で、茶道の習得段階を記した言葉です。
茶道における成長段階を「守」「破」「離」という3段階に分けて、説明しています。
初期の段階では、師匠の言うことを、1から10まで徹底的に、守ります。
次の段階では、自分の個性を優先した向上のために、師匠から教わったことを、一転して破るようになります。
最終段階では、師匠から離れていくようになります。
守り、破り、離れていくという3段階は、茶道に限らず、ほかの武道にも通じます。
意外なことに、親子の関係でも、同じことがあります。
生まれてようやく立つことができるようになった子どもは、親の言うことを守ります。
何も知らない子どもですから、親の言うことに従い、言葉遣いやマナーなどを教わります。
生まれて間もない子どもですから、この親の言うことを守るという段階は、重要です。
いちばんの土台であり、基本、基礎になります。
しかし、さらに成長すれば、親の言うことを破るようになります。
非行に走る意味ではありません。
成長したがゆえに、親より素晴らしい学びを優先するようになるということです。
個性は親らしさとは異なります。
自分を深く掘り下げ、追求した結果、親からの教えを破るようになるのです。
世間は変わりますから、親の教えが今の世の中でもすべて通じるかといえば、疑問です。
少なからず親の言うことにも、時代遅れの部分があります。
あるいは、学びの段階において、親より優れた学びを見つけたというときもあるでしょう。
成長の活発な子どもには、強い吸収力があります。
親より早い成長のため、親の言うことを破るようになるのです。
親の言うことを破るようになったということは、もっと素晴らしい教えを見つけたということです。
親としては喜ぶべきこと。
さらに成長をすれば、どうなると思いますか。
子は、親から離れたくなるのです。
親が嫌いになって離れたくなるのではありません。
もっと成長を求めるがゆえに、自立しようとするのです。
巣立ちであり、自立を求め始めます。
親がいつまでもそばにいては、少なからず束縛があります。
束縛は、成長の妨げになり、障害となってしまうから、子どもは親から離れていきたがるのです。
家を飛び出し、一人暮らしをしたがるようになります。
これが、子育てにおける「守破離」です。
見てのとおり「守→破→離」と後の段階になるにつれて、だんだん親に対して反発をするようになります。
それは、非行を見てしまいがちですが、そうではない。
成長しているのです。
成長は反抗に見えてしまいますが、この成長するにつれて、親に反発し、最後には離れたくなるものなのです。
親離れをしたがり始めた子どもを、親は歓迎しなければならないのです。
父に反抗する子どもは、父を超えようとする姿です。
父より素晴らしい手本を見つけたから、父の言うことに反抗しようとします。
それが「反抗期」です。
ただの非行ではありません。
反抗期は、第2の成長段階「守破離」の「破」に当たります。
「親に反抗するとはどういうことだ」
「親の言うことを聞きなさい」
反抗し始めた子どもを心配するのは取り越し苦労です。
反抗は、あるのが正常です。
反抗がない状態は、いつまでも親には「良い子ちゃん」である状態です。
親以下である状態が続いています。
親の言うことをいつまでも守っている子どもは、それ以上に素晴らしい手本や学びをまだ見つけていません。
成長が滞っているということです。
「親の言うことは何でも聞きます」という子どもは、育ちの良い響きに聞こえます。
誰も反論しようとしませんが、実際は育ちが良いどころか、悪い状態です。
もちろん子どもがまだ小学生なら、まだ「良い子ちゃん」はわかります。
「守破離」の「守」の段階です。
しかし、成人になっても、親の言うことを聞く子どもは「守」の段階です。
次のステップへと進んでいないということです。
良い子ではなく、成長不良です。
親は子どもが成人して、いまだに言うことをよく聞く良い子なら、心配しなければなりません。
良い子に育ててはいけないのです。
成長するにつれて親に反抗し始めたら「守破離」の「破」の段階に入ったということです。
子どもはある程度成長すれば、親から離れようとします。
茶道の教えである守破離と同じように、成長した子どもは最終的に親から離れようとします。
しかし、親離れをしたい子どもがいても、子離れをしたくない親なら問題です。
本来、子どもの成長を願いながら、子どもが親から離れようとしたときに、拒む親が多いのです。
「一人暮らしを始めたい」と言う子どもに対して、親であるあなたは、こういうことを言っていませんか。
「許しません。あなたが1人で暮らし始めたら大変なことになる」
「お父さん、お母さんが、あなたを監視できなくなるでしょ」
「誰が親の面倒を見てくれるの?」
こういうことを言う親は、自分のことばかりを考えている親なのです。
子どもの成長を願いながら、成長したがる子どもを束縛しています。
一人暮らしを始めたいと言い出した子どもに対して、親は「いいよ」と言わなければならないのです。
それはついに、成長の最終段階「離」に入ったということです。
親はむしろ大喜びしないといけないのです。
「親がいなくても生きていけるようになります」という一大決心をしているのです。
悲しいことではなく、喜ぶべきことです。
いずれ親は、子どもより先に死んでしまいます。
そのときに、1人でも生きていけるように、親がいるうちから「親がいなくなったときの体験」をさせておくことが必要なのです。
本当に子どものことを思う親は、必ず子どもを手放せます。
早く手放したいと思います。
かわいいからといつまでも自分の手の中にいると、子どもは本当に成長できません。
「かわいい子には旅をさせよ」と言葉があるように、子どもの成長を思うなら、いつか子どもを手放す勇気を持ってください。
親こそ「子離れ」をするのです。
子どもを手放すことは、親としては、本当につらいことでしょう。
しかし、いつまでも世間知らずでは、子どもが社会に出たときに、うまくやっていくことができません。
「親離れ」をする子どもを、親は歓迎しないといけないのです。
引き止めてはならず「行ってらっしゃい」「つらくなったらいつでも戻ってきなさい」というくらいでいい。
親離れをするのは、子だけではありません。
親のほうこそ「子離れ」していかないといけないのです。
父として子どもにできることといえば、手本を見せることです。
前向きな姿勢という手本です。
手本を見せることでしか、子どもに対して姿勢、威厳をアピールすることはできません。
誰より強くかっこ良い父を見て、子どもは憧れ、尊敬するようになります。
一生懸命になっている父は、ゲームで勝っても負けてもかっこいい。
子どもは父から「一生懸命さ」を学び「積極性」を学び、同じようになりたいと思うからです。
父が「こうしろ、ああしろ」というふうには育ちません。
父がすることを、そっくりそのまま真似するようになります。
一生懸命になっている父を見て、かっこよく感じ、憧れを抱くようになるからです。
政治家の息子は政治家になりやすいといいます。
環境やお金持ちという条件がそろっているだけでなく、政治家として働く父の姿に憧れたからです。
医者の子も医者になりやすいと言います。
医者として人を一生懸命に治療する父を見て、子どもは感動し、同じような道に歩みたいと思うからです。
スポーツ選手の子も、スポーツ選手としての道を歩みやすい。
アニマル浜口の娘、浜口京子さんも、父と同じ道を歩んでいます。
かくいう私も、父と似ている道を歩んでいます。
父は、機械系の仕事をしていたため、機械関係には強かった。
部品を組み立てたり、修理したりしている父がいつもそばにいたから、機械に対していつの間にか抵抗がなくなっていました。
パソコンで仕事をしている父は、楽しそうに見えました。
楽しそうだったから、私もパソコンに触れるようになり、気づけば、IT業界という父の道と似ている進路を選んでいます。
父の背中を見て、自然と憧れを抱き、無意識のうちにそうした進路を選んだのです。
父からは「将来はこうなりなさい」とは、まったくの一言も言われていません。
しかし、父が父としての手本を見せてくれただけで、十分に学びがあったのです。
私が今、父に感謝していることは、私を手放してくれたことです。
高校卒業後、アメリカへ留学したいとき、許してくれました。
日本に帰り、今後は東京で就職したいときも、許してくれました。
よく許してくれたなと思います。
親の知らない土地へ子どもを行かせることは、つらいことだったと思います。
しかし、おかげで私は今、自分の能力を発揮できています。
ときどき私は、不思議な感覚になることがあります。
自分を動かしているのは、自分ではない感覚です。
少し意味が難しいですかね。
私がしているおおもとは、すべて根底に親の力があることに気づきます。
自分が今ここまで成長できたのは、親のおかげです。
ということは、私の成長は、親によるものと考えることができます。
私は今、たくさん本を書いています。
たしかに書いたのは私ですが、書かせてくれているのは親です。
一人暮らしで自分の自由な時間があるからこそ、できることです。
親からの許しがなければ、1人で暮らすことはできませんでした。
自由な時間もできなかったことでしょう。
いまだに親のそばで暮らす状態が続いていれば、今の私は存在しません。
親は、そばにいるだけで、口を挟んできます。
畑仕事のこと、家族行事のことなどです。
話しかけてくるたびに、自分のやりたいことを妨げられます。
東京で一人暮らしをすることを許してくれたり、束縛せずに好きなようにさせてくれたりします。
お世話されていないようですが、実は十分にお世話されています。
あやつり人形のように操作されているような感覚です。
親からの許し、支援援助、愛情があったからこそ、今の私が存在しています。
遠くにいる親から操られているような感覚になっているのです。
子どもから見ると、すぐ怒鳴る父は、尊敬の対象ではなくなります。
間違ったことをしたからとはいえ、怒鳴って怒るのはいけません。
感情に振り回されている姿に見え、大人らしくないように見えます。
大人から見ても、怒鳴っている大人は子どものように見えます。
子どもから見ても、怒鳴っている大人は子どものように見え、頼りなく思えてしまうのです。
私が子どものころに見た「すぐ怒る大人」は、子どもから見ても面白おかしく思えたものです。
「それくらいのことでいらいらしなくてもいいのに」と思い、器が小さく感じてしまいました。
怒鳴っている人を、尊敬の対象とは見られないのです。
子どもを怒鳴る親は、子どものためにと思っているようです。
しかし、子どもは叱られるとそれだけで頭がいっぱいになり、反省する余裕がなくなります。
そのことに、大人は気づいていません。
父親だけでなく、母親もです。
怒鳴ることは、一種の脅迫です。
恐怖脅迫という圧力によって教育する方法は、子どもを怖がらせてしまいます。
すぐ怒る親のもとでは「きちんとしよう」というより「叱られないようにしよう」という保守的な気持ちが大きくなります。
本来は、自分の間違ったことを反省して、次からは間違えないように行動するための教育です。
しかし、子どもが間違ったからという理由で、怒鳴ってしまう親だと、子どもは「間違えないように」とばかり考えてしまいます。
子どもをすぐ怒鳴る父親は、尊敬されなくなります。
そうはいえ、子どもを怒らないわけにはいかない場合もあることでしょう。
そんなときには、怒鳴ることで教育するのではありません。
叱ることで、教育するのです。
怒鳴るのは、感情的に大声で当たり散らすだけです。
子どもを、恐怖と脅迫という圧力により、脅すことです。
一方で叱るというのは、どこが間違っているのかを教えたうえで、どうすればいいのかをきちんと整理して説明することです。
感情的にならず、淡々と「それは違うよ。こうだよ」と教えることです。
子どもは、小さくて弱いため「怒鳴る」というような圧力で、教育をしてはいけないのです。
感情的になってはいけない。
子どもは怒っていると怖がるため、素直に話が聞けなくなります。
怒鳴るのではなく、叱ることで、正しいことを教えればいいのです。
子どもとしては、叱る親を尊敬するようになります。
「自分は仕事をしているから、子育ては妻に任せればいい」
「男は仕事さえできていればいいんだ」
そのように考えているお父さんは、要注意です。
子どもから見ると、いつも家にいないお父さんは「どうしたんだろう」と不安になります。
仕事が忙しいと、子どもが起きるより早く家を出て、子どもが寝た後帰宅することになります。
子どもと顔を合わすことが少なくなりますね。
では、せめて休日くらいは子どもとの触れ合いを増やしてはいかがでしょうか。
「今はとにかく疲れているから寝たい」
「休日くらいは、ゆっくりさせてくれ」
「のんびりしたいんだ」
そう思うお父さんもいることでしょう。
私から、良いアイデアがあります。
疲れを取る温泉に、一緒に出かけるというのはいかがですか。
温泉なら、気持ちよくて疲れも十分に取れることでしょう。
同時に、子どもと触れ合う時間も増えます。
癒やされながら、家族との時間を増やすことができる。
なかなかいいアイデアですよね。
実はこのアイデアは、私の父が実行していたものです。
私の家族は、休日には近くの温泉によく家族で遊びに行っていました。
休日だからゆっくりさせてほしい父と、休日だから家族で出かけたい母や子どもの両方の願いを同時に叶えるアイデアです。
父が疲れを取るためであり、家族と触れ合う時間を少しでも増やすためです。
疲れている休日には、疲れを取るところへ家族と遊びに出かければいいのです。
父親は、仕事ばかりしている自分は、子どもからかっこよく見られていると思っています。
しかし、子どもは、仕事ばかりしている父親を、かっこ悪いと思います。
ここで、双方のギャップが生まれます。
「子育ては妻に任せている」という父親のことを、無責任な親と思っています。
そんな父親に限って、子どもが非行に走り始めると「お前(妻)の育て方が悪いんだ」と責任を転嫁します。
本当は妻が悪いのではない。
子育てを放棄している父親に、本当の責任があるのです。
子育てをすべて妻に任せているから、妻1人に負荷がかかり、大変になります。
1人でさえ育てるのが大変な子どもが、2人も3人もいれば、妻だけでは対応できなくなるでしょう。
男は仕事さえしていればいいという父親は、実は子育てから逃げているだけです。
「男は仕事さえしていればいい。金を稼いでやっているんだ」というのではいけない。
子どもはお金ではなく、愛が欲しいからです。
愛を与えず、お金ばかりを与えている父親は、その時点で子育てを勘違いしているのです。
子どもは、父の車の運転をよく見ています。
車の運転で見せる姿が父親の本性だと思っています。
ハンドルを握ると性格が変わる人がいます。
しかし、性格が変わるのではなく、本来、抑制されていたものが噴き出ているだけです。
車の中なら、相手の車に対して悪口をはいても、聞こえません。
聞こえないことをいいことに、気持ちが緩んで、普段思っている言えないことを言ってしまいます。
ハンドルを握って性格が変わるのではなく、本音が出ているだけです。
本当の性格なのです。
子どもはその感覚を敏感に感じ取ります。
ハンドルを握る父ががらりと変わると「これがお父さんの本性」と思ってしまうのです。
ハンドルを握っているときの言動には、十分に注意しましょう。
子どもは父の運転のときまで、しっかり見ています。
子には、自分の両親に対して誇りを持ってもらわなければなりません。
自分の両親がばかだと、そんなばかな親に育てられている自分もばかなんだと思います。
とにかく子どもは、自分の両親をいちばん大切な存在として見て、考えます。
手本であり、指標と考えます。
しかし、両親がしっかりしていると、自分もしっかりしていると思い始めます。
子どもには、自分の両親はしっかりしていると思ってもらわなければならないのです。
ときどき、父が母を侮辱する場面があります。
「愚妻」という言葉がありますが、愚かな妻と書くように、妻を見下した表現です。
家庭の外では、相手に失礼にならないように、自分の身内のことを見下して表現することはあります。
しかし、家庭内において妻を見下した表現は一切不要です。
妻を見下した言葉を使い、何か意味があるのでしょうか。
子どもは自分の両親がばかだと感じるとがっかりするだけでなく、失望します。
両親同士が、ののしり合っていると、子どももぐれてしまいます。
非行に走る子どもの両親は、決まってよくけんかをして、ののしりあっています。
非行に走る少年が悪いのではなく、家庭内において両親の仲が悪いから、それを見ている子どもも非行に走り始めたのです。
自分の両親がばかだと思い始めれば、子どもも自分がばかだと思い込み、非行に走り始める。
ばかと言い合う両親を見ていると、子どもまでそうなります。
そういうふうに育てているからです。
仲間同士がけんかをしているようなものです。
まったく意味がありません。
見苦しく、お互いが苦しくなるだけです。
「叱る」という教育のさらに上に「褒める」という教育があります。
叱ることは、間違ったときに感情的にならず、正しさを教えることです。
褒めるということは、間違ったときには、良いところをピックアップして褒め、悪いところも一緒に直してもらう方法です。
間違いを正すために、間違いそのものに焦点を合わせず、褒めるべき点に焦点を合わせ、一緒に悪いところも直すようにするのです。
たとえば、初めて1人でお使いをしたときに、レジでおつりをもらい忘れた失敗例で説明しましょう。
怒鳴る例、叱る例、褒める例の違いです。
「ばか! きちんとおつりをもらってこい! それくらい常識だろ! 本当にお前はダメだな」
「おつりをきちんともらわないといけないでしょ。次から気をつけてもらってね」
「1人で買い物できて偉いぞ。次からはおつりをきちんともらうと、もっとすごいぞ」
この違いに今あなたは、しっかり驚いてください。
主観的になっているとわかりにくいですが、客観的に言葉のギャップを見ると、これほど違いがあるのです。
大人は何気なく口にしている言葉でしょうが、聞いて受け止める子どもには、まったく印象が異なります。
子どもにおつりをもらうように教えるというだけでも、これほどに差が出てくるものです。
あなたは「怒鳴る」「叱る」「褒める」のうち、どの教育で子どもを育てていますか。
親として目指すべき教育は、褒めることです。
怒鳴る、叱るは、親としてはエネルギーもストレスもたまりますが、褒めることはストレスがたまりません。
褒められると嬉しくなり、もっと行動したくなります。
もっと頑張りたくもなります。
子どもの才能を引き伸ばす教育方法なのです。
大胆なたとえになりますが、教育のうまい親とは、調教師とよく似ています。
動物を調教するプロを思い出しましょう。
動物を、叩いたり、殴ったり、痛めつけたりして教育しようとしません。
暴力により、動物を調教しようとしても、動物は親を嫌いになるばかりで、言うことを聞かなくなります。
動物はみな「痛がり屋」です。
痛いこと、苦しいことからは、避けようと行動します。
優れた調教師は、あなたもご存じのように、餌というご褒美により、教えようとします。
餌を使って、動物をあれこれと導こうとします。
うまくできれば頭をなでて、笑顔をプレゼントします。
これは、子どもの育て方にも共通しているのです。
子どもを育てるためには、叩いたり、殴ったり、痛めつけたりして教育してはいけません。
暴力による教育は、本当に身につく教育ではありません。
恐怖という圧力により、子どもはしぶしぶ従っているだけです。
親が嫌いになり、親に対して反抗的になるばかりです。
教育のうまい親は、暴力ではなく「褒める」という餌を使って、子どもを育てます。
「偉いね」「すごいね」「よくやったね」という褒め言葉を餌に、子どもを伸ばしていこうとします。
子どもがいちばん求めているものは、親からの愛情です。
親から褒められたり、なでられたりすることを求め、さらに行動的になります。
何でも褒めて、子どもを動かし、伸ばしていくことができるのです。
褒めることは、子どもも親も元気になる教育方法です。
しかし、褒めることが良いことだと頭ではわかっているが、なかなか褒めることで教育できない親が多い。
なぜでしょうか。
自分が怒鳴られ叱られて育ってきたから、子どもにも同じ苦しみを経験させたい気持ちが、無意識のうちにあります。
ないと思っても、褒める教育ができないからには、必ず理由があります。
その原因の多くは、自分と両親との関係です。
幼少期、親からの厳しい教育を受けてきた苦しみを、自分の子どもにも経験させたい肉親への仕返しが、子に対して表れます。
虐待された子どもが大人になると、自分の子どもにも虐待をする傾向があります。
「もう親のことは忘れた」と思っても、心の奥では、まだ許していない自分がいるからです。
自分が親になり、子を育てようとしたとき、ふと昔の記憶がよみがえり、同じように怒鳴って怒ってしまいます。
肉親への恨みが、自分の子へ表れているのです。
仕返しの延長です。
褒める教育ができないのは、子どもに問題があるのではありません。
本当の問題は、自分と両親との関係にあります。
褒める教育ができないと悩んでいるなら、自分と両親との関係を見直してみましょう。
根本的原因は、そこにあります。
子どもとの関係の前に、自分と親との関係を直すことです。
親との関係が良くなれば、子どもとの関係も必ずよくなります。
「勉強、頑張れ!」
「運動会、頑張れ!」
「部活、頑張れ!」
「頑張れ」というのは、応援するときの代表的な言葉です。
大変便利な言葉です。
誰もが当たり前のように使っています。
しかし、一方で冷たい言葉でもあります。
いろいろな使い方ができる半面、子どもの返事に困ったら「頑張れ」という答えでごまかせてしまいます。
相手の気持ちを一切考えずに、いくらでも言えてしまうから注意が必要です。
子どもに頑張れと応援するとき、ほとんどの場合、すでに子どもは頑張っています。
すでに頑張っているというのに、さらに頑張れと話しかけることは、子どもにはかなりのストレスになります。
私は子どものころ、一生懸命頑張っているのに、大人から「頑張れ」と言われて違和感を抱いたことがあります。
「すでに一生懸命頑張っているではないか。見てわからないのかな」
不思議に思ったほどです。
頑張れは便利な言葉だけに、相手の気持ちなんて考えることなく、言えばいいだけのことです。
気持ちはなくても、とりあえず応援ができてしまいます。
頑張れほど気持ちのこもった応援はないのです。
大人たちは「頑張れ」を口癖に応援してしまいますが、いちばん言ってはいけない応援といっても過言ではありません。
勉強にしろ、運動会にしろ、頑張れといわれなくても、頑張るのは当たり前のことだからです。
子どもがすでにわかっていることを、繰り返し言わなくても良いのです。
子どもが頑張っているがゆえに、つい忘れがちになっていることを、大人は補足するのです。
私はいつも、頑張れば頑張るほど、必ず忘れがちになることがあります。
一生懸命になるほど、つい忘れがちになること。
あなたにはわかりますか。
「楽しむ」ということです。
一生懸命に頑張るほど、肩に力が自然と入り、楽しむことを忘れてしまいがちです。
視野が狭くなり、気持ちの余裕がなくなり、不要なところにまで力が入ってしまいます。
頑張れという言葉をやめて、楽しもうという言葉に代えてしまえばいいのです。
頑張るのは、子どもの仕事です。
楽しむことを思い出させてあげるのが、大人の仕事であり、本当の応援です。
頑張っていて、あともう1つ何かを応援するなら「楽しむこと」です。
「楽しんで!」という応援は、子どもの背中を上手に押すことができる言葉です。
「頑張れ」という言葉を「楽しんで!」という言葉に置き換えましょう。
「勉強、頑張れ!」→「勉強、楽しんで!」
「運動会、頑張れ!」→「運動会、楽しんで!」
「部活、頑張れ!」→「部活、楽しんで!」
いかがでしょうか。
楽しむという言葉に置き換えるだけで、元気の出る言葉になりましたね。
子どもは素直ですから、一生懸命に頑張るのは大人が言わなくても、そうします。
大人は一生懸命になると忘れがちな「楽しむ」ということを補足してあげればいいのです。
私の父は、どんな選択であろうと、子どもの意思なら何でも許してくれました。
昔から、よくこんな言葉をかけてくれました。
「貴博の好きなようにやれ」
「貴博のやりたいことをやればいい」
「そうしたければ、そうしなさい」
「好きにすればいい」
すべてを私の判断に委ねてくれ、子どもの気持ちを第一に考えてくれる父親でした。
「どうすればいい」と聞いても「貴博が好きなようにすればいい」と必ず答えます。
昔から、判断はすべて、私に任せていました。
こういう言葉により、私は個性を伸ばしていくことができました。
教育という言葉は、英語で「educate」と言います。
本来「educate」という言葉には「引き出す」という意味があります。
「教育とは、子どもの特徴や特性を引き出し、生かすことである」という意味です。
私の父が「好きなようにやれ」と言った言葉は「放任」ではなく「教育」だったのです。
子どもに判断を任せることで、子どもでも考えるベストな判断をします。
やりたいことをやらせることより、自分で道を切り開く癖がつき、個性がどんどんと伸びていきます。
好きなことをしてこそ、やる気や集中、根気が出て、もともとあった個性がさらに顕著になります。
私がクラブ活動を選ぶとき、進路を考えるときも「貴博の意思に任せる」と言いました。
「アメリカへ留学したい」「東京で仕事をしたい」という決断も、許してくれました。
自分の息子が、親元を離れることはさすがに抵抗があったでしょう。
しかし、それでも許してくれた親は本当の教育を知っていたのだと思います。
「父親は、子どもから嫌われることが仕事なのよね」
以前、行きつけの美容院のおばさんが小さな声で言った言葉に、私は妙に納得してしまったことがあります。
私の母と同じくらいの年齢のおばさんでした。
私と同じ年の息子さんをお持ちということもあり、共通点が多く、話がよく弾んだものです。
母に髪を切られているような心境になっていました。
上記の言葉は、そんな親子について会話をしたときに出た言葉です。
父親母親それぞれの「親としての役割」は大きく異なりますが、とりわけ父親は子どもから嫌われることが父親の役目となります。
嫌われるような父親にならないといけない。
そう聞くと「信じられない」と思うでしょう。
しかし、子どもから「うちの父はなっていない!」と言われるようになり、初めて父としての役目ができているのです。
私も、学生時代は、父親が嫌いでたまりませんでした。
この世でいちばん嫌いな人であり、否定をしてきた存在でした。
子どもとしては、大嫌いな親を乗り越えようとしているからこそ反論、反発、否定をして、その力をバネに成長していくのです。
物心がつき、判断ができて、自分の力で生きていけるようになれば、親からの保護を自分から断ち切り、自分の道を選び進みます。
それは往々にして「父が嫌い」「親なんていらない」という曲がった言葉として表現される場合が多いのです。
私の父も強い威厳があり、怒れば怖い父親でしたが、父親としての仕事ができている証拠でした。
幼い私は、その威厳に逆らうことができず、従うしかなかった。
幼稚園や小学生のころは、その圧力に従いながら成長しますが、中学から高校にかけて、たまったストレスは一気に噴き出します。
父の威厳により、子どもは父を否定し、乗り越えたい欲求が大きくなります。
反抗期が、その代表例です。
いずれ子どもは、親元から離れていく。
当時の私にしてみれば、高校卒業後のアメリカへの留学がそれにあたります。
「アメリカへ行きたい」という気持ちより、親から離れたいという反発力のほうが強くて、圧倒的な原動力となっていました。
そのくらいに父が嫌いでしたが、結果として今、成長できている自分がいるのです。
私はまんまと、父からの教育どおりに育ってきたということです。
父は、子の教育のために威厳を出し、出した威厳のために子どもから嫌われ、子どもは反発力をバネに成長していったのです。
命を懸けた教育だったのです。
だから今の私がいます。
父は子育てをしていない、と思っていた私が間違っていたのでした。
父は、自分を犠牲にすることで、子を育てていたのでした。
「父親は、子どもから嫌われることが仕事なのよね」という言葉は、自分の過去を照らし合わせて、そのとおりだと思ったのです。
子どもを手放すというのは、最も親がしたくないことです。
最愛のわが子ほど、いつまでも手元に置きたいと思います。
しかし、一方で、手放すことができる親は、本当に愛の深い親でもあります。
子どもを手放すことができる親は、本当に子どもに育ってほしいと願う親心を持っているからです。
子どもを束縛するような指示をしては、子どもはいつまでも育ってくれません。
ゆえに、制限をかける親は、子どもをダメにする親ということです。
親であるあなたは、次のような言葉に心当たりはありませんか。
「門限は、6時」
「一人暮らしは危ないからダメ」
「実家に近い大学を選びなさい」
「都会に出ていくことは許さない」
「あなた(子ども)がいなくなったら、私たち(両親)の面倒は誰が見てくれるの」
少々、厳しいことを言ってしまいますが、こうしたことを言う親は、最低の親です。
いつまでも自分の手元に子どもを置いておこうとする親は、むしろ犯罪行為と言ってもいいほどです。
巣立って自立したい、という気持ちになっている子どもを束縛しています。
刑務所に監禁している状態と、さほど変わらないのです。
いつまでも手元に置いておきたいという親は、本当に子どものことを考えてはおらず、自分本位で考えているのです。
自分の持ち物という認識が強いのです。
自分(親)が寂しくなりたくないからと、子どもを人形のように手元に置きたがろうとします。
いつまでも鎖でつながったままの犬は、筋力や体力が衰えて早死にしてしまいます。
同じように、いつまでも束縛という鎖につながったままの子どもも、筋力や精神力が衰え、1人で生きていけなくなります。
あなたが本当に子どものことを考えている愛の深い親なら、巣立つ子どもをそっと見守ってあげましょう。
親元から離れようとする子を、許すのです。
門限をなくし、一人暮らしを許してあげるのです。
実家から出ていこうとする子を許す親は、最低の親ではなく、むしろ最高の親なのです。
愛があるからこそ鎖を解いて、大きな社会の波に揉まれて強くなってほしいと願います。
子どもが、好きでたまらない愛の深い親だからこそ、手放すことができるのです。