「子どもに生きる力を身につけさせたい」
親は、子どもを健全に成長させ、自立を促したいと願うでしょう。
子どもと比べれば、親ははるかに年上です。
1980年代に初期のゲーム機が登場して以来、短い間に劇的な進化を遂げました。
現代のゲーム機は、昔に比べれば、高品質でハイレベルです。
ビジュアルは美しくなり、現実と見違えてしまうほどの映像です。
子どもに自信をつけさせるためには、やはり子どもが自信をつけるような成功を経験させるのがいちばんです。
親が子どもに「できる。大丈夫」と励ますことで、湧き上がる自信もあります。
私の場合、親からの力強い言葉で励まされ、勇気をもらった経験が数多くあります。
ときどき読者のかたから「次から次へとよく書くネタが出てきますね」と言われることがあります。
実は、私も「よくこれだけ書くよな」と思っています。
次から次へとネタが出てくるのは、私にとっても不思議な感じです。
私が子どものころ、野生的な野外キャンプを体験したことがありました。
愛媛の山奥に「愛媛森林公園」という野外キャンプ専用の施設があります。
近所の人との企画で話が勝手に進み、親からは「面白いよ」と言われたので、ぜひ参加することにしました。
「ゲームをして遊ぶ」
突然ですが、この言葉を聞いて、あなたは最初に何を想像しましたか。
ゲームといえば、テレビやパソコンなどのスクリーンに向かってするゲームを想像する人が多いのではないでしょうか。
私が小学生だったある日のこと、祖父に「めんこ」を教えてもらったことがあります。
めんこという遊びは、1980年代、すでに大変古臭い遊びで、私は経験したことがありませんでした。
「知らない」と答える私に「じゃあ、教えてやろう」と祖父がめんこをつくって、遊び方を教えてくれました。
外遊びは、子どもの成長にいいというお話をしました。
これは人種を越えて、世界のどこでも同じです。
特に日本の場合は、世界の中でも外遊びをすると、他の国以上に「いいこと」があります。
22歳のとき、ニューヨーク・マンハッタンへ一人旅行をしたことがあります。
ニューヨーク・マンハッタンといえば、世界でも有数の超大都会です。
現地に到着して、大きなビルが立ち並んでいるというイメージは想像どおりでした。
「田舎は何もなくて、静かすぎる」
そういう話をよく耳にします。
しかし、本当にそうでしょうか。
愛媛県に「愛媛森林公園」という自然いっぱいの公園もあります。
キャンプ施設として楽しむことができるのですが、なんと言っても有名なのがアスレチックコース。
山の頂上に向かう山道は、単なる山道ではありません。
私が小学生のころ、実家では雑種犬を1匹飼っていました。
犬を飼っていると、散歩が日課になります。
日によっては、家族のみんなで散歩に出かけることもしばしばありました。
実家は、兼業農家をやっていました。
兼業農家とは、農業以外の仕事にも従事して収入を得ている農家のことをいいます。
農業をメインとする「第1種兼業農家」と、農業をサブとする「第2種兼業農家」との2種類があります。
「スポーツ」と言えば、どのような印象がありますか。
一般的には「体を動かす」というイメージが強いことでしょう。
ジョギングで汗を流したり、チームのメンバーに大声を出して指示を出したりなど、見た目からの印象は強いはずです。
スポーツは、体にいいだけでなく、脳の健康にも有効です。
体を動かすことで、血液の循環が活発化され、脳の働きもよくなります。
特に効果が強いのは「個人競技」より「団体競技」です。
外で遊んでいると、自然と汚い物に触れる機会も増えます。
子どもが外で遊ぶと言えば、やはり公園で遊ぶことが多くなるでしょう。
公園にある遊具と言えば、鉄棒・滑り台・ジャングルジムなどがあります。
インターネットやゲームが進化したため、部屋の中で何でもできるようになりました。
部屋の中とはいえ、パソコンとインターネットがあれば、もはや「何でもできる」と言っても過言ではありません。
インターネットで世界中の情報を検索できたり、地球の裏側にいる人とゲームをしたり、買い物やテレビや映画を見たりもできます。
テレビは、便利な道具です。
何が便利なのかというと、移動せずとも、1つのスクリーンからさまざまな情報を音と映像を伴って見ることができるからです。
テレビをぼうっと眺めるだけで、次々と世間のさまざまな風景を目にできます。
2010年は、これまでの常識を覆すテレビが登場しました。
3Dの映像を映し出すテレビの登場です。
従来のテレビといえば、平面に映し出された映像を見る形態が中心でした。
部屋の中にいると、自然とエアコンに頼ってしまいます。
便利な道具があると、欲しくなるのが人間です。
エアコンがあれば、暑い夏も寒い冬も一定の温度に保つことができるようになります。
国語での読解力は、想像する力にも比例します。
文章を読んだとき、情景を鮮明に想像できる人のほうが、文章題に対して有利に働くのはいうまでもありません。
では、その想像する力とは、いつ、どう育まれるのか。
日本は、学歴社会です。
最近では崩れつつありますが、やはり就職の際、高学歴が有利に働くという現実は確実にあります。
学歴が重視されるというのは、まだ根強く残っています。
外は、人の成長になくてはならない大切な刺激がいっぱいです。
では、生まれたばかりの赤ちゃんにいきなり外遊びさせればいいのかというと、そうではありません。
早すぎると、外は危険すぎます。
外遊びをし始めるようになると、あらゆるものが気になって仕方ありません。
川の中の魚を捕まえようとしたり、畑の中で虫を捕まえたりしていると、着ている服はすぐ汚れます。
まさに「泥んこ」です。
私の実家の近くには、神社があります。
歩いて1分の近場です。
その神社には、ブランコ・鉄棒・滑り台など、遊具がありました。
私は以前、フィットネスクラブでウォーキングマシンを使っていた時期があります。
たまたま家から5分のところに5階立ての大型フィットネスクラブができました。
最新のトレーニングマシンに、プール・ダンスフロア、しかもお風呂とサウナまで付いています。
私が小学生のころは、遊びに門限がありました。
夕方の6時ごろです。
6時を過ぎると、親からひどく叱られるので、いつも時間を気にしながら遊んでいました。
あなたは旅行がお好きですか。
おそらくこれまで何度か旅行を経験したことがあるでしょう。
私も旅行が大好きです。
子どもが外で遊ぶときに、常に付きまとう問題は「迷子」です。
1人で外に遊びに行けば、つい遠くまで行きすぎてしまい、うっかり道に迷うこともあるでしょう。
では、友人と一緒なら安全でしょうか。
子どもは潜在的に「遠くへ行ってみよう」という気持ちがあります。
遠くへ行かないと、子どもはいつまでも行動範囲を広げられず、成長ができません。
遠くへ行くと、新しい物が見られ、自分の世界観を広げられます。
「子どもに生きる力を身につけさせたい」
親は、子どもを健全に成長させ、自立を促したいと願うでしょう。
子どもと比べれば、親ははるかに年上です。
寿命で考えれば、親のほうが先にこの世を去ることになります。
親が子どもを育てるのは、自分がこの世から去った後も、1人で生きていけるだけの力を子どもに身につけさせるためです。
それが教育です。
しかし、この生きる力を身につけさせるための教育とはどんなものなのか。
抽象的でわかりにくいと思います。
そこで子どもに「外遊び」をおすすめします。
家の中での遊びではなく、外に出て、友人と一緒に野原や川や公園などで遊びます。
このとき、自然と子どもは生きる力を身につけます。
外遊びには、子どもが生きる力に必要な要素がすべて備わっているからです。
たくさんありすぎて、すべてを紹介しきれませんが、たとえば、川の浅瀬を例に取りましょう。
子どもが川の浅瀬で遊んでいると、珍しい魚を発見する。
その魚をどうにかして捕まえたい。
そういうとき、子どもは頭の中で試行錯誤します。
「どう魚を追い込んでいこうか」
足の踏み場に気をつけながら、川の水の流れを読みつつ、魚の独特の動きを観察して、追い込む。
友人がいれば、コミュニケーションを取りながら協力することになるでしょう。
もちろん初めからうまく行くはずがないですから、何度も挑戦するはずです。
これはすべて、子どもにとっていい刺激です。
単に川の浅瀬で興味のある魚を捕まえようとするだけでも、子どもには体・心・頭のすべてをフル稼働させることになります。
これは一例です。
外には、さまざまな遊びや発見がたくさんあります。
公園で珍しい花を見つけたり、野原で美しい花を見つけたり、土の上を這っている見慣れない昆虫を見つけたりなどです。
五感を通して観察したり感じたり考えたりすることで、知らず知らずの間に思考力を身につけることができます。
まさに外遊びは、生きる力を身につけるための修行の場。
外遊びには五感を刺激する要素はもちろんのこと、子どものやる気や集中力を発揮させるすべての要素が盛り込まれています。
だからこそいま一度、外遊びをおすすめしたい。
どんどん子どもを外で遊ばせ、さまざまな刺激を与えてあげましょう。
それが、子どもに生きる力をつけさせる第一歩になるのです。
1980年代に初期のゲーム機が登場して以来、短い間に劇的な進化を遂げました。
現代のゲーム機は、昔に比べれば、高品質でハイレベルです。
ビジュアルは美しくなり、現実と見違えてしまうほどの映像です。
音楽もステレオはもちろん、オーケストラを利用した美しい音色のものが多くあります。
また最近は、体を動かして進めるゲームも増えてきました。
現実を見間違えてしまうほどの仮想空間。
もはや家庭用ゲーム機は、子どもたちの外遊びに変わる要素の1つになったといっても過言ではないでしょう。
これほど豊かなゲームなら、現実での外遊びのように五感を始め、思考力を鍛える機会になるはず。
しかも、現実ではとうてい味わうことのできない独特のストーリーもありますから、子どもたちの成長に一役買う面もあるでしょう。
ハイレベルのゲームをすれば、子どもの生きる力を身につけられるのではないか。
そう考える親御さんたちも多いのではないでしょうか。
しかし、やはりいくらゲーム機や仮想空間が発達したとしても、現実での外遊びにはかないません。
「刺激の質」が、全然違うからです。
現実での外遊びのほうがはるかに強く、圧倒的に豊富な刺激が得られます。
体を動かしたり、五感で刺激を感じ取ったりなど、ゲームより現実の外遊びのほうがはるかに豊かです。
川の水の冷たさを感じたり、花のにおいを嗅いだり、昆虫を発見したり、友人と協力してプレーしたりなどです。
ゲームや仮想空間で得られることもありますが、まだ現実世界の外遊びには及びません。
また、ゲームは最初からストーリーが決められています。
「ここはこういうふうにしなければいけない」というルールが、ゲーム製作者によって決められ、変更できません。
しかし、現実の外遊びは、ルールはありません。
自分たちで、好きなようにルールをつくっていけるという柔軟性もあります。
いつでも、どこでも、何をしてもいい。
そうした無限の可能性は、外遊びのほうが大きいのです。
子どもに自信をつけさせるためには、やはり子どもが自信をつけるような成功を経験させるのがいちばんです。
親が子どもに「できる。大丈夫」と励ますことで、湧き上がる自信もあります。
私の場合、親からの力強い言葉で励まされ、勇気をもらった経験が数多くあります。
しかし、本当に効果があるのは、やはり実際に成功体験をすることです。
実際に何かに挑戦して「できた!」という成功を積み重ねることで、身につくようになります。
大きな自信は、いきなり身につくものではありません。
小さな自信をいくつも積み重ねて、次第に大きくなります。
では、その小さな自信をどこで経験するのか。
それは外で遊んでいると、自然と得られることです。
外に出て、自分が興味のあることを見つけ、楽しむだけでいい。
野原を飛んでいるチョウを網で捕まえるのは、小さな成功体験です。
砂場で大きな山をつくるのも、小さな成功体験です。
たとえ、川の浅瀬で小さな魚を捕まえることでさえ、小さな成功体験です。
外で思う存分遊ぶことで、小さな成功体験は、自然と積み重ねることができるようになります。
子どもは次第に自分に自信をつけていくようになります。
「やったぞ!」「できたぞ!」という遊びによって体得します。
「やればできる」という自信をつけるようになります。
この自信があれば、もちろん勉強でも生きてきます。
勉強で難しいところがあっても、遊んで試行錯誤の末にうまくできた経験があると「やればなんとかできるだろう」と思えるのです。
ときどき読者のかたから「次から次へとよく書くネタが出てきますね」と言われることがあります。
実は、私も「よくこれだけ書くよな」と思っています。
次から次へとネタが出てくるのは、私にとっても不思議な感じです。
出そうと思って出しているわけではありません。
なぜか、急に出てきます。
書いているうちに「こういう方法もあるな。そういえばこういうのもある。ほかのやり方もあるなあ」と、考えが広がります。
広がって、止まらなくなります。
その結果、次々と自然と出て、気づけば何百何千と出ています。
量の多さに驚いているのは、読者より、実は私かもしれません。
クリエイティブな仕事は椅子に座ってじっとしていると出てくるようなイメージがありますが、実際は違います。
手や足、頭を働かせているときに、自然と「こうしてはどうだろうか」という発想が、急に出てきます。
何かをやり始めたら、自然と話が大きく膨らむものです。
たとえば、好きな洋服を買いにデパートに行くこともあるでしょう。
たいてい、ほかにいい服を見つけてしまい、2着も3着も買ってしまう。
そうするうち、デパートに来たついでだからと、靴やカバンを見て回ったりしてしまいます。
初めはまったく頭の片隅にもなかったことが、行動しているうちにやる気が出て、話も大きくなり、行動が広がります。
椅子に座って「話を広げよう」と思っても全然広がらないのに、手足を動かし、頭を動かすうちに、自然と広がります。
とにかく体を動かす。
とにかく好きなことをやってみる。
すると、当初、思っても見ない現実が、次々と発生します。
人生は、思っても見ない方向へ動き始めるのです。
私が子どものころ、野生的な野外キャンプを体験したことがありました。
愛媛の山奥に「愛媛森林公園」という野外キャンプ専用の施設があります。
近所の人との企画で話が勝手に進み、親からは「面白いよ」と言われたので、ぜひ参加することにしました。
総勢20名くらいで、1泊2日のキャンプです。
ところが、これがとんでもない経験の連続になりました。
行ってみると、周りには民家は一軒もありません。
道路はあっても、全然車は通らない。
まさに山奥。
夜になったらお化けでも出そうな場所でした。
聞こえるのは、虫の鳴き声、川で水が流れる音、風が吹く音ばかりです。
まず、そんなへき地に驚きました。
到着するや否や、まずテントを張って、簡易的な家を造ります。
ご飯をつくるときは火が必要ですが、あえてライターは使いません。
近くにある木を斧で切って、切った木同士をこすり合わせ、摩擦熱で火をおこします。
これがまた、一苦労でした。
いくらやっても火がつかず、私は「ライター使おうよ」と言っても、周りの大人たちは、ダメだといいます。
私は挫折して、ほかの友人に火をおこしてもらいました。
火がついたと思ったら、次はご飯です。
ご飯を炊くときも、あえて炊飯器は使いません。
「飯ごう」という屋外で使用する携帯用炊飯器具を使って、火で温めながらご飯を炊きます。
火が弱いとご飯はうまく炊けませんし、火が強すぎるとご飯はぱりぱりになります。
夕方になれば、お風呂の時間です。
当然ですが、湯沸かし器なんてものはありません。
大きなドラム缶に水を入れ、火をたいてお風呂をつくります。
そんな野生的なお風呂に入るのは初めてです。
極めつけは、夜でした。
周りに民家は一軒もないので、まさに「闇」です。
夜中にトイレに行きたくなって、テントの中で目が覚めました。
いつもなら、スイッチ1つで電気をつけられますが、そんなものはありません。
頼りになるのは、月の光だけ。
そのかすかな光を頼りに、川端まで行き、おしっこをしました。
この経験は、便利な道具に囲まれていた私にとって、衝撃でした。
あえて、山奥で生活をする。
あえてライターを使わない。
あえて炊飯器を使わない。
電気もない。
私は貴重な経験ができました。
一度でもそういう経験をすると、現実への見方が変わりました。
キャンプ場から家に帰ったとき、家中の当たり前の風景が、大変豊かであるように感じられました。
指先で一瞬に火がつくライター。
ワンタッチで、お風呂が沸く湯沸かし器。
ボタン1つで、ご飯が炊ける炊飯器。
スイッチ1つで、明るくなる電気。
当たり前だと思っていた機器の便利さを実感でき、そうした機器の便利さをいま一度体感できた貴重な経験でした。
「現代は豊かだ」
どの大人たちも、そう言います。
しかし、子どもは生まれたとき、初めから豊かな機器に囲まれているので、当たり前だと思ってしまう。
それをわからせるには、野外キャンプを体験させるのが、いちばんです。
豊かさを感じさせるのではなく、いま一度、原点を体験させるのです。
「ゲームをして遊ぶ」
突然ですが、この言葉を聞いて、あなたは最初に何を想像しましたか。
ゲームといえば、テレビやパソコンなどのスクリーンに向かってするゲームを想像する人が多いのではないでしょうか。
テレビ・パソコン・ゲーム機の画面と向き合い、ボタン操作をしながらするゲームです。
21世紀になって生まれた人なら、ほとんどそういうイメージを持つ人が多いことでしょう。
遊びといえば「家の中でするもの」と思っている人が多いようです。
20世紀から21世紀までのわずかの間に、遊びに対するイメージもがらりと変わりました。
科学技術が進歩して、家の中にいながらにして、広い世界で冒険をしているようなゲームを楽しめるようになりました。
しかし、20世紀に生まれた人なら、ほとんどが違ったゲームを連想するはずです。
竹馬・めんこ・かくれんぼ・鬼ごっこ・かるた・トランプゲームなどです。
20世紀まではコンピューターの発達が未熟だったため、遊びといえば、家の外でするイメージが強くあります。
私も、遊びといえば「外でするもの」というイメージがあります。
近くに神社があり、そこで野球・かくれんぼ・鬼ごっこを1日中していた思い出があります。
特に木登りは、本当によくやりました。
木の上にいるセミを捕まえようとして、木に登って逃げられるという思い出は数え切れないほどです。
そういう何でもないところにも楽しみはあります。
技術が進んだ今だからこそ、古い昔の遊びを教え、何でもないところにある、楽しみに気づかせる価値があります。
古いからこそ、価値があります。
電気がなかった時代に、子どもたちはどんな遊びをしていたのか。
ゲーム機がなかった時代に、子どもたちはどんな遊びをしていたのか。
子どもたちは昔の遊びに、夢中になるはずです。
時代は変わっても、ゲームの本質は変わりません。
ゲームの本質とは、どきどき感やわくわく感などの興奮。
勝ち負けの嬉しさや悔しさです。
それは今も昔も変わりません。
何も変わりありません。
時代が進むにつれ「ゲームの形態」は変わりましたが「ゲームの楽しさ」は、今も昔も変わりありません。
たとえ古臭いゲームでも、子どもたちがやり始めれば、夢中になるでしょう。
物がない時代には、何もないなりに、こんな工夫をしながら遊んでいたんだということがわかるはずです。
私が小学生だったある日のこと、祖父に「めんこ」を教えてもらったことがあります。
めんこという遊びは、1980年代、すでに大変古臭い遊びで、私は経験したことがありませんでした。
「知らない」と答える私に「じゃあ、教えてやろう」と祖父がめんこをつくって、遊び方を教えてくれました。
めんことは、日本独自の遊びです。
昔の遊びだけあり、めんこのつくり方や遊び方は、シンプルです。
円形、または長方形の分厚い紙をつくります。
その厚紙でできたものが、めんこです。
2人以上が、互いに自分のものを地面に叩きつけ合います。
その地面に打ちつけたときの風の力で相手のめんこを裏返して、勝負を競います。
少し凝っためんこになると、絵柄模様や写真をはり付けることもあったそうです。
めんこを作った祖父が、手本にどうやるのか見せてくれました。
私は驚きました。
いつもは腰を曲げて鈍い動きばかりの祖父が、慣れた手つきで急に俊敏になります。
急に若返ります。
その瞬間だけ、祖父は子ども時代に戻っていました。
祖父はめんこをしているうちに、昔の自分を思い出していたのかもしれません。
懐かしい気持ちがこみ上げたり、昔の遊んでいた風景を思い出したりしていたのでしょう。
にやにや笑いながら、楽しそうにします。
その瞬間、祖父が昔どれだけめんこで遊んでいたのかが伝わってきました。
祖父の慣れた手つきや嬉しそうな表情を見て「毎日、こればかりして遊んでいた」ということが、ひしひし伝わってきます。
昔の遊びを教えるのは、これだけでも意味があります。
しかも、祖父はうまかった。
強く地面にめんこを叩きつければ、強い風を起こすことができますが、ただ力任せに地面に叩きつければいいわけではありません。
相手のめんこを裏返すことができるよう、角度や場所などを計算に入れる必要がある頭脳ゲームでもあります。
私のほうが若いので、力任せにめんこを地面に叩きつけますが、なかなかうまくできません。
しかし、祖父は一発で私のめんこをひっくり返してしまいます。
子ども時代に何度もやって、体が動きを覚えているのでしょう。
昔の遊びなら、年配者ほど強くなれるのです。
外遊びは、子どもの成長にいいというお話をしました。
これは人種を越えて、世界のどこでも同じです。
特に日本の場合は、世界の中でも外遊びをすると、他の国以上に「いいこと」があります。
日本には、世界でも珍しい四季がはっきりした国という点です。
季節ごとに変化が大変大きい。
春には、美しい桜が満開になります。
あっという間に咲いたと思えば、すぐ散ってしまう光景に独特のはかない美しさを感じる機会になるでしょう。
じめじめした梅雨がきて、その後は本格的な夏の始まりです。
夏には燃えるような炎天下になり、汗が噴き出て止まりません。
暑い夏に外で遊び、たっぷり汗をかくのもいいでしょう。
汗をかくというのは、体温調整を鍛える大切な機会です。
もちろん熱中症には気をつける必要はありますが、多少の暑さに耐えられるだけの強さは必要です。
しばらくすれば、秋になり紅葉の季節です。
涼しい季節になり、読書や趣味に専念しやすくなります。
外に出て、道端をぼんやり歩いているだけでも、色鮮やかな紅葉を楽しめます。
年末に向けて、次第に寒さが厳しくなり、本格的な冬の到来です。
雪が降り、寒さをたっぷり感じ、震えが止まらなくなります。
たとえ寒くても、外で体を動かして遊んでいるうちに、体が温まり、汗がにじんでくるはずです。
雪が降れば、親子で雪合戦をすればいい。
冷たさの中に、暖かさがあります。
夏は半袖で汗を流す一方、冬には長袖であるにもかかわらず寒さに震える。
まったくもって季節の変化が激しすぎる国と言っていいでしょう。
だからこそいい。
四季の大きな変化を五感で受け止め、脳の健康に良い影響を与えます。
気温の変化が大きいので、体温調整を鍛える機会になるはずです。
大きな気温の変化が、動植物にも大きな変化をもたらします。
春夏秋冬という1年に、4パターンもあります。
これが日本で暮らしているがゆえに享受できる、素晴らしい環境です。
日本には、そうした激しい外界の変化や体を鍛える環境が、初めからある国です。
どんどん外で遊んでほしいです。
そうした季節の変化、動植物の変化は、家の中では十分に感じきれません。
やはり家の外に出て、自然と体全身で受け止めて感じるのがいちばんです。
どんなに仮想世界が進んでも、こういう季節の変化を生々しく感じるのは、大切な子どもの成長につながります。
22歳のとき、ニューヨーク・マンハッタンへ一人旅行をしたことがあります。
ニューヨーク・マンハッタンといえば、世界でも有数の超大都会です。
現地に到着して、大きなビルが立ち並んでいるというイメージは想像どおりでした。
ずらりと立ち並ぶビル街を、カバンを片手にビジネスマンがさっそうと歩く姿は、テレビや雑誌で見たとおりでした。
夜は、ぎらぎら輝くネオン街へと変わります。
まさに大都会。
しかし、1つだけ、実際に行ってみて意外だったことがあります。
大都会であるにもかかわらず、自然があります。
それも大自然です。
ニューヨーク・マンハッタンの真ん中には「セントラルパーク」という巨大公園があります。
草木が豊富に咲き乱れ、都会のオアシスになっていました。
まさかこんな大都会に、これほどの自然があるとは思いませんでした。
驚いて、セントラルパークの全体を、歩いて一周したほどです。
ビルばかりというイメージが頭を占有していたので、余計に度肝を抜かれました。
その後、社会人になった私は、東京で仕事をするようになりました。
東京の三軒茶屋で一人暮らしをしながら、新宿で仕事をすることになりました。
三軒茶屋は、渋谷に大変近い都会の町です。
そんな都会にも、探せば自然を大切にした公園や道がありました。
世田谷区民たちが自然保護の活動をしたり、わざわざ自然を作ったりしています。
そのため、世田谷は都会にもかかわらず、古い神社・公園・街並みなどが残っています。
しかも、人々が楽しむ専用の散歩道まであるのには、実際住み始めてから知り、驚かされました。
私は、新宿にある超高層ビルの31階で仕事をすることになりました。
31階から眺める眺望は、まさに絶景です。
東京はまさに、ビルばかり。
と思っていると、ビルの中に大きな大自然があるではありませんか。
「新宿御苑」と「明治神宮」です。
調べたところによると、新宿御苑は58万平行メートル。
東京ドーム、およそ12個分の広大な敷地です。
明治神宮の敷地は、東京ドーム、およそ15個分とのこと。
その敷地内に、なんと17万本もの木があるそうです。
都会には十分すぎるほどの、自然です。
そうこういくつかの大都会を見ているうちに、ふと、気づきました。
大都会ほど、必ず大自然があります。
なぜ大都会ほど、大自然があるのか。
おそらく人間の心のどこかには「自然が原点」という本能があるのでしょう。
私たち人間は、自然の中にいると、ほっとします。
癒やされます。
目には見えませんが、そういう自然を求める力が働いているようです。
人が誕生した生まれ故郷のような感覚が、本能に眠っているからに違いありません。
そのため大都会だからこそ、自然を求めようとする力が、反するように強くなります。
だからこそ、大都会ほど大自然が存在すると考えられます。
ニューヨークのマンハッタンや東京の新宿ですら自然がありますから、ほかの都会でも、探せば必ず自然はあるはずです。
「都会には自然がない」という話は、半分は本当ですが、半分は嘘です。
都会にはたしかに自然は少ないですが、探せばきちんとあるはずです。
「田舎は何もなくて、静かすぎる」
そういう話をよく耳にします。
しかし、本当にそうでしょうか。
私は田舎出身なのでわかりますが、たしかに田舎には静かな土地が多いのは事実です。
しかし、時と場合によっては、都会に劣らないほど大きな音を耳にすることがあります。
たとえば、夏は昼も夜も大きな音が聞こえます。
昼間はセミが大合唱し、夜はカエルが大合唱をするからです。
それは大都会の工事現場に負けないくらいの大音量です。
大粒の雨が降れば、大きな音が響きます。
田舎は草木が多いので、少し風が吹いただけで、揺れる音がよく聞こえます。
少しでも天気が荒れようものなら、大きな音です。
それは、都会で車が頻繁に行き交う車道に負けないくらいの騒音です。
しかし、そうした自然の音は、都会とは違い、うるさいとは感じにくい。
むしろ「癒やし」を感じる場合が多いです。
なぜでしょうか。
「音の大きさ」が問題ではありません。
「音の質」が問題です。
私たちは、自然の音を聞いたとき、ひとりでにリラックスできます。
リラックスするというのは「元に戻る」ということです。
今まで緊張しすぎていた心が元に戻り、波立っていた心が落ち着きを取り戻します。
そういう自然の音を聞いていると、体の緊張が解かれます。
セミやカエルの鳴き声でも、聞いていると癒やされます。
それは生命の声であり、命の音です。
音の質が問題です。
「人工的な音」か「自然の音」かの違いです。
いい音を聞かせると、子どもはリラックスできるようになります。
また心が落ち着いたからこそ、みなぎる力もあります。
心が休んで元気を充電できるからこそ、日中は喜怒哀楽を表現しやすくなります。
きちんと心が休むと、本来の元気も出てきます。
それは田舎だけでなく、都会でもできます。
車通りが少なく、自然が生い茂る場所があるはずです。
そうした場所へ行けば、本来の自分が取り戻せ、リラックスができます。
都会とはいえ、自然の音を聞いていると、どこか「おかえりなさい」という声にも聞こえてくるのです。
愛媛県に「愛媛森林公園」という自然いっぱいの公園もあります。
キャンプ施設として楽しむことができるのですが、なんと言っても有名なのがアスレチックコース。
山の頂上に向かう山道は、単なる山道ではありません。
道の途中に木でできた巨大遊具があり、看板に書いてある指示のとおりにクリアしながら、頂上まで登っていくルールでした。
ゲーム感覚として十分手応えがあり、子どもだった私は大喜びでした。
コースには、20を超える木製の巨大な遊び道具があり、体力を使います。
子どものころは、近場にある山へアスレチックを兼ねて、家族でピクニックに出かけました。
祖父と妹の3人で行くこともあれば、家族全員で行くこともあったり、学校の遠足行事で登ったりすることもありました。
山の麓から登り始め、頂上に行き着くころには、寒い冬場でもいい汗をかいてしまいます。
ただでさえきつい山道に大きな遊具がありますから、子どもの基礎体力づくりには十分です。
頂上には、お弁当が食べられる小屋があり、家族で弁当を広げて食べられるようになっています。
家族で思い出といえば、まず「旅行」というのが思いつくことでしょう。
しかし、遠くへ旅行をするなら時間が必要で、必然的に大型連休くらいしか時間が取れません。
では、日帰りのピクニックではどうでしょうか。
小さなピクニックなら、週末に日帰りでできることでしょう。
旅行が難しいなら、せめて日帰りのピクニックをすればいい。
ピクニックとはいえ、旅行に劣らない思い出をつくれます。
運動ができ、緑や野鳥を楽しめ、家族での思い出ができる。
家族との思い出をつくるなら、これほどいい経験はないのです。
私が小学生のころ、実家では雑種犬を1匹飼っていました。
犬を飼っていると、散歩が日課になります。
日によっては、家族のみんなで散歩に出かけることもしばしばありました。
家族とはいえ、よく口げんかをします。
しかし、犬と散歩の途中だけは、不思議と口げんかをすることはありませんでした。
それはなぜか。
常に犬が仲裁に入ってくれるからです。
「やめなさい」と犬が声を出すわけではありませんが、しっぽを振ったり飛びついたりなどして、2人の間に割り込んできます。
犬は、人間が対立し合っているのはきちんと理解します。
理性的に話をする人間に対して、犬はまったく無邪気です。
その無邪気さがいい。
理性と理性の間に無邪気が割り込むと、ちょうど中和される形になり、落ち着いた会話がしやすくなります。
無邪気な犬は、無邪気だからこそ、素晴らしい仲介役になれます。
犬と散歩をしているときに、けんかはできません。
家族と犬の散歩をしている間は、落ち着いて物事の話ができます。
のんびり散歩をしながら、無邪気な犬のおかげで家族との会話が弾みます。
犬との散歩は、親と話をする絶好の機会なのです。
実家は、兼業農家をやっていました。
兼業農家とは、農業以外の仕事にも従事して収入を得ている農家のことをいいます。
農業をメインとする「第1種兼業農家」と、農業をサブとする「第2種兼業農家」との2種類があります。
祖父が現役で働いていたころは「第1種兼業農家」でしたが、父が就職したころから「第2種兼業農家」に変わりました。
祖父も父も農家に触れていたので、私も幼いころから農業に関わっていました。
育てている果物は、主にミカンが中心でした。
実家の庭は、半分以上がミカン畑です。
もちろん庭だけではなく、山の広大な一面を水口家が所有し、大きなミカンの木がずらりと並んでいました。
どのくらい大きいのかというと、山中を小型モノレールが走っているほどです。
小学校の運動場が3つ分くらいの敷地があり、ミカンいっぱいに詰まったバッグを人の手で持ち運ぶのは非現実です。
そのため、小型モノレールを山中に設置して、ミカンを運んでいました。
しかも、そのミカン畑は山奥にあります。
山奥から山道まで、なんと小型ロープウエーがあり、運んでいました。
祖父が現役のころは、ミカンで収入を立てている「第1種兼業農家」でしたので本格的でした。
ミカンは、水をやっていれば自然に育つと思っている人が多いですが、そう単純ではありません。
商品として売るためには、傷がなく、赤々としたよく熟れたミカンが条件です。
そのために、知られていませんが「摘果」という作業があります。
良質の果実を得るために、余分な果実を、未熟なうちにつみ取ることです。
未熟なミカンを先に摘み取ることで、限られた果実に栄養が行き渡りやすくなり、赤々としたミカンに育つようになります。
「農業」という言葉に違和感があるほど、もはや完全に日常の一部でした。
家の手伝いといえば「畑に向かう」という想像すらあるくらいです。
「家の手伝いをしてくれ」と親から言われると、だいたい「ミカンの消毒」「摘果」「摘み取り」のどれかと決まっていました。
そういう大変な行程を経て、ミカンはようやく育っていきます。
人間も、一人前に育てるまでには親は苦労しますが、ミカンでも同じです。
勝手にミカンが熟れてくれると思えばとんでもない。
ほうっておけば、台風で飛ばされたり、虫に食われたり、未熟のままであったりと、ミカンはどれも努力に苦労を重ねた結果です。
そういう目に見えない努力が、私には見えます。
おそらく私はミカンを食べたときのおいしさを、ほかの人よりおいしく感じているのではないかと思います。
苦労が多い分、味覚が研ぎ澄まされます。
自分が作った料理を食べると、いつもよりおいしく感じるのと同じです。
苦労があるからこそ、味を感じようとする意識が強くなり、おいしく感じます。
苦労が大変である反面、ミカンのおいしさを引き立てる効果があります。
大人になった今、ほかの人より味覚が研ぎ澄まされている感じがします。
そういうとき「自分は農家出身で良かったな」と思うのです。
「スポーツ」と言えば、どのような印象がありますか。
一般的には「体を動かす」というイメージが強いことでしょう。
ジョギングで汗を流したり、チームのメンバーに大声を出して指示を出したりなど、見た目からの印象は強いはずです。
その一方、頭はあまり使う必要はないと思っている人も多いのではないでしょうか。
健康な肉体に、力や俊敏さが備われば、それだけでいい人も多いはずです。
いいえ、そんなことはありません。
実はスポーツでも、必死に勉強しているくらい頭を動かしています。
スポーツをすればするほど、体の筋力は鍛えられますが、脳の力も鍛えられます。
たとえば例として、運動場で友人とサッカーをするときを考えてみましょう。
まず、サッカーボールを追いかけて常にグラウンドを走り回るため、足腰を鍛える機会になるのは当然ですね。
しかし、このとき動いているのは、体だけではなく、脳も同じです。
部屋の中とは違い、外で走っていると、刻々と周りの風景が変わります。
自分は今、フィールドのどの位置に立ち、どの方向を向いているのか。
人やボールまでの距離はどのくらいなのか。
人やボールが近づいているのか、遠ざかっているのか。
こうした「空間を認知する力」「動きを読む力」「状況を判断する力」などを刺激しています。
頭を最大限に活用しなければ、ゲームを進めていけません。
そうした考えを、ゲーム中は常に把握し続けることになります。
サッカーとはいえ、体を動かしているだけでなく、脳もフル回転させています。
スポーツとは、脳トレーニングの1つと言ってもいいのです。
スポーツは、体にいいだけでなく、脳の健康にも有効です。
体を動かすことで、血液の循環が活発化され、脳の働きもよくなります。
特に効果が強いのは「個人競技」より「団体競技」です。
個人競技も頭を使いますが、団体競技はもっと頭を使うことになります。
団体競技は、マイペースが許されません。
複数人の動きを一度に把握し、チームを勝利に導くため、状況に応じたベストの対処を考える必要があります。
たとえば、野球を例に考えてみましょう。
まず、複数人でやるからには「チーム構成」を考えます。
この時点ですでに頭を使うことになります。
誰がピッチャーになるか、レフトやライトで守るか、打順はどうするか。
人の長所や短所などを考慮に入れて、勝利へと導くために、ベストな人の配置を考えます。
ボールを早く投げられる人がピッチャーになり、素早く飛んでくるボールの守備が強い人がファーストやセカンドになります。
遠投が得意な人間がレフトやライトになるでしょう。
人の配置が決まれば、い良いよゲームスタートです。
打者がバッターボックスに立ち、ピッチャーが投げるボールを見つめます。
このとき「集中力」が高まっている状態です。
その飛んでくるボールに、どう反応するか。
ここにも思考力があります。
チームを勝利に導くために、いつもホームランばかりがいいとは限りません。
フィールドのどこへボールを落とすために、どのくらいの強さでバットを振ればいいのかを考えます。
レフトの守備が弱くなっていれば、そこを目がけるのも手です。
確実に一点を取るため、時にはバントが要求されるときがあります。
バットにボールが当たれば、一塁に向けて全力で走る。
見事、一塁まで進んでも、まだ続きがあります。
次の二塁へ進むために、ピッチャーの様子を見ながら盗塁のチャンスをうかがいます。
ピッチャーのしぐさや疲れなどを判断し「できる!」と判断した一瞬の隙を見て、全力で二塁へ向けて走ります。
チームだからこそ、数多くの状況判断が要求され、頭を酷使することになります。
ここでは例として野球を挙げましたが、ほかの団体競技でも同じです。
大勢の人が参加するのは、どれも頭を使います。
サッカー、バスケットボールなど、自分勝手にできないスポーツだからこそ、他者との距離感の把握がより必要です。
「チーム」だからこそ、脳を活性化せざるを得ない状況です。
だからこそ、団体競技は頭を鍛える機会です。
頭脳ゲームといえるのです。
外で遊んでいると、自然と汚い物に触れる機会も増えます。
子どもが外で遊ぶと言えば、やはり公園で遊ぶことが多くなるでしょう。
公園にある遊具と言えば、鉄棒・滑り台・ジャングルジムなどがあります。
たとえば、子どもが公園の鉄棒で遊ぶとしましょう。
あらためて考えてみましょう。
何年も前からある公園なら、その鉄棒は数多くの人たちが利用しているはずです。
鉄棒というくらいですから、手に強く力を入れて握ることが多いはず。
つまり、多くの人の手垢がしっかり付着しているということです。
誰が、どんな手の状態で握っているのか、わかりません。
鉄棒とはいえ、かなり汚れているはずです。
こういう話をすると「これからは子どもを公園で遊ばせるのはやめよう」という親御さんがいます。
しかし、それを言い始めると、何もできなくなります。
ジャングルジムも、滑り台も同じです。
電車の手すりも、階段の手すりも触ることができなくなります。
極端に言えば、レストランに入ったとき、メニューには多くの人の手垢がついているはずですから、注文すらできなくなります。
汚いものには触れないように心がけていると、何も触れることができなくなります。
そもそも汚い物に触れるのが悪いこととは限りません。
「汚い物に触れるのは悪いこと」という先入観を取り払うことです。
汚れに触れるからこそ、体の中に悪い菌が入ってきたとしても、菌を退治しようとする免疫力が高められます。
免疫力を高めるためには、清潔すぎてはいけない。
ドアや手すりなど社会便宜上で利用する物に対しては、許容できる心持ちがちょうどいい。
「汚い物に触らなければいけない現実は受け入れ、触った後にきちんと手を洗う」
この習慣のほうが重要です。
この習慣をつけておけば、免疫力を高めつつ、清潔感を保つことができるのです。
インターネットやゲームが進化したため、部屋の中で何でもできるようになりました。
部屋の中とはいえ、パソコンとインターネットがあれば、もはや「何でもできる」と言っても過言ではありません。
インターネットで世界中の情報を検索できたり、地球の裏側にいる人とゲームをしたり、買い物やテレビや映画を見たりもできます。
たしかに昔に比べれば、はるかに可能性は広がりました。
便利な物は増え、豊かな時代になりました。
しかし、そんな豊かな時代でも、部屋の中だけの生活だけでは、刺激は限定されます。
なぜ、限定されるのか。
まず行動範囲が部屋の中だけというのが良くありません。
出無精になってしまうと、触れる刺激がどうしても限定的、かつパターン化しやすくなります。
部屋の中は狭いですから、1万歩歩いたり、走ったりすることもない。
「ウォーキングマシンがあるではないか」
たしかにウォーキングマシンという便利な道具を使えば、部屋の中でも運動はできます。
しかし、肝心の風景が変わることがありません。
通常の散歩には、移り変わる風景を目で確認しながら、風を肌で感じ、においを鼻で感じていきます。
「テレビで世界のさまざまな風景が見られるではないか」
たしかにテレビは世界中のさまざまな映像を映し出してくれますが、本当に立体とは言えません。
遠近感をつくり出すために「ぼかし」や「重なり」を駆使していますが、あくまで平面です。
また、部屋の中が清潔すぎます。
「清潔すぎて何が悪いのか」
たしかに清潔であるのはいいことのように思えますが、言い換えれば無菌状態です。
無菌状態での生活が長くなると、体の免疫力が低下し、外の刺激や菌に対して弱くなってしまいます。
病に冒されたときの回復力が、著しく低下します。
なにより、部屋の中でじっとしていると、季節が感じられにくくなります。
閉め切った室内と便利なエアコンが、常に部屋の温度と湿度を一定に保ち、快適すぎるため体温調整機能は弱ってしまうのです。
テレビは、便利な道具です。
何が便利なのかというと、移動せずとも、1つのスクリーンからさまざまな情報を音と映像を伴って見ることができるからです。
テレビをぼうっと眺めるだけで、次々と世間のさまざまな風景を目にできます。
さまざまな映像や音を発するテレビは、まさに脳を活性化させる救世主と思われます。
しかし、本当にそうでしょうか。
実は、必ずしもそうとは言い切れません。
最大の問題点は、テレビのスクリーンはあくまで「平面」ということです。
「平面」と「立体」は違います。
テレビの中で映るさまざまな風景には遠近感がありますが、人の目には「本当の立体」として映ってはいません。
人間の目は、2つありますね。
右目と左目とでは、若干見える映像が異なります。
この「左右それぞれで見える映像が若干異なる」というのが、重要なポイントです。
では、試してみましょう。
まず右目を開いたまま、左目を閉じてください。
次は逆に、左目を開いたまま、右目を閉じてください。
どうでしょうか。
見える映像が、わずかに異なっていることがおわかりでしょう。
左右の目の位置が異なるため、当然見える映像もわずかに異なります。
しかし、両目で見ているとき、見える映像が異なっているにもかかわらず、まったく違和感がありません。
なぜでしょうか。
それは、脳の中で自動的に「合成処理」がされているからです。
この合成処理は、高度な処理です。
右目と左目とで見える画像の違いを、脳の中で合成し、そのとき立体感も同時に生み出します。
このおかげで、私たちは遠近感を正確に把握してみることができます。
では、スクリーンに映る立体の場合はどうでしょうか。
スクリーンを見る場合でも、やはり右目と左目とでは若干見える映像が異なります。
しかし、見ているのは「スクリーン」に対してです。
スクリーンそのものは、遠近感を伴って立体に見えています。
スクリーンの中の映像までは、脳の中で本当の立体物としての認識はありません。
「ぼかし」や「重なり」という画像を駆使して、立体的であるかのように見せているだけです。
あくまで、立体に見える平面です。
「スクリーンで見る立体」と「現実世界の立体」は、脳には似て非なるものです。
脳の健康のために、テレビばかりを見させても、本当に脳を活性化させているとは言えません。
脳の合成処理機能を低下させてしまうことになります。
やはり現実世界のさまざまな風景を、ありのまま見るのがいちばんです。
空に浮かぶ雲や遠くにある建物や山を見ることで、脳の合成処理が活性化され、脳の健康に良い影響を及ぼすのです。
2010年は、これまでの常識を覆すテレビが登場しました。
3Dの映像を映し出すテレビの登場です。
従来のテレビといえば、平面に映し出された映像を見る形態が中心でした。
これまでにも、3Dによる映画やテレビがありましたが、いくつかの大きな問題がありました。
技術が発展途上であったため、一部の施設の利用などに限られ、庶民の暮らしまで広まることはありませんでした。
しかし、技術は進歩しました。
いまや、専用のメガネはもう不要です。
そのうえ、一般市民でも手に入れられる価格まで下がりました。
そうした理由から「2010年は3Dテレビの元年になるのではないか」といわれています。
20世紀中ごろに白黒テレビが登場して以来、目覚ましい進化です。
白黒テレビの後、カラーテレビが登場。
薄型テレビや大型テレビが登場。
今回、ついに3Dテレビが登場です。
3Dのテレビなら、従来のテレビとは異なり、立体感のある映像が見られるため、左右の目で見る映像の合成処理が行われます。
脳の健康面でもいいのではないか、と思われます。
実際はどうでしょうか。
たしかに2Dの映像しか見られなかったテレビに比べれば、はるかに脳にはいいでしょう。
しかし、まだ足りないことがあります。
触覚・嗅覚・味覚の再現です。
3Dテレビの登場によって「音」と「映像」に関しては、現実味を帯びた画像を再現できるようになりました。
ですが、まだ本当の現実には追いついていません。
現実の世界は、五感を伴って感じられる世界です。
360度から聞こえる小鳥たちの声を聞きながら、野道にある草花を見つけ、手でつまんで、鼻でにおいを嗅いでみる。
そうした五感を通した刺激は、現在のテレビ技術ではできません。
もちろん人間の科学技術の進歩は、とどまることを知りません。
ゆくゆくは肌触り・におい・味まで体感できるスーパーテレビが登場する日が来ることでしょう。
現時点では「そんなまさか」と思いますが、それを実現させてきたのが、これまでの人類の歴史です。
しかし、登場するとしても、まだはるか先の話と考えていいでしょう。
私たちが生きている間にお目にかかれるとは限りません。
その日を待つのは、あまりに気の長い話だと思いませんか。
今育てている子どもが成人になり、老人になります。
もしかしたら、亡くなってしまった後かもしれません。
進化したテレビの登場を待つより、今すぐ外に出て遊んで経験を積むほうが、はるかに成長が早いのです。
部屋の中にいると、自然とエアコンに頼ってしまいます。
便利な道具があると、欲しくなるのが人間です。
エアコンがあれば、暑い夏も寒い冬も一定の温度に保つことができるようになります。
少しでも子どもに快適な生活をさせてあげようと思い、エアコンのある部屋で生活させている家庭も多いのではないでしょうか。
これは便利である一方、不便でもあります。
いつも部屋の中が快適な一定温度に保たれてしまうと、体温を調整する働きが弱くなります。
体温調整の働きが弱くなるというのは、言い換えれば、暑さや寒さにも弱くなるということです。
エアコンを長期間にわたって頼り続けると、私たちの体は次第に温度変化の小さい生活に慣れて、体温調節が働きにくくなります。
体温調節が働きにくくなってしまうと、いざエアコンなしの場所に移動したとき、本当に苦労します。
暑い場所では汗が出にくくなったり、暑さで疲れやすくなったり、寒いところではすぐ体温を奪われ、動きにくくなります。
適度な暑さや寒さを感じさせることは、子どもの体の健康になくてはならないことです。
特に子どものうちは、この体温調整を鍛える時期です。
本当に子どものことを思うなら、あえてエアコンなしの生活がいい。
暑い夏にはたっぷり汗をかく。
寒い冬には体を震わせる。
多少の暑かったり寒かったりするくらいでは、むしろエアコンをつけないほうが健康的なのです。
国語での読解力は、想像する力にも比例します。
文章を読んだとき、情景を鮮明に想像できる人のほうが、文章題に対して有利に働くのはいうまでもありません。
では、その想像する力とは、いつ、どう育まれるのか。
それは、過去の自分の体験をもとに育まれます。
同じ経験がある、似た経験があれば、書いてあることを、感情を伴いながら、より具体的に理解できるようになります。
たとえば、国語の文章問題で「野球に負けて悔し涙をぼろぼろ流す」という内容があったとします。
やはり実際に野球をして、試合に負けて涙を流した経験があるなら、その悔しい気持ちはより具体的に想像できるはずです。
また、文章に書いている内容が野球だからと言って、まったく同じスポーツである必要はありません。
たとえ、サッカーをしていたとしても、試合で負けて大粒の悔し涙を流した経験があるなら、気持ちが通じる部分があるはずです。
書いてある気持ちを、より鮮やかにはっきり理解できるでしょう。
しかし、出無精でスポーツをまったくしたことがない人の場合はどうでしょうか。
体験がないなら、負けたときの悔しさを理解するというのは難しいでしょう。
それなりのイメージはできるかもしれませんが、実体験のある人に比べれば、はるかに劣るはずです。
そういうところで、国語の読解力というのは、差が出てきます。
国語といえば、頭を使うイメージがあります。
しかし、違います。
根底を突き詰めれば、土台は「過去の体験」であり、幼少期に「体を動かす」という習慣が鍵を握ります。
この体を動かす経験を、できるだけ若いうちにたくさんしておくほうがいい。
勉強も大切ですが、それ以外はもっと大切です。
友人をつくり、一緒に遊んだり、旅行をしたり、スポーツをしたりです。
時には、友人とけんかしたり、スポーツで惨敗して大泣きしたりするのもいい体験です。
その正否を問わない数多くの体験が、後に具体的なイメージ力へとつながり、国語の読解力が高められるのです。
日本は、学歴社会です。
最近では崩れつつありますが、やはり就職の際、高学歴が有利に働くという現実は確実にあります。
学歴が重視されるというのは、まだ根強く残っています。
また日本だけではなく、他の国でも、学歴を重視している国も多くあります。
アメリカ、イギリスも学歴社会です。
特に韓国は、日本以上に学歴に厳しいといわれます。
そうした学歴社会が前提にあるため、わが子に早くから勉強をさせようと、焦ってむきになる親御さんがいます。
「勉強優先型の育て方」です。
小学校から義務教育が始まりますが、もっと早い時期である幼稚園から塾に通い、英才教育に力を入れるという話をよく耳にします。
ほかの人より早くから勉強を始めることで、誰より早くスタートダッシュができ、テストで良い点を取らせようとします。
一見すれば、たしかに効果が認められる方法の1つと言えるでしょう。
小学校で学ぶ読み書きを、幼稚園のうちから学んでおけば、小学校に入学してから成績が上位になるのは間違いありません。
同様に、早くに勉強する習慣が、中学・高校・大学でも有利に働き、大学受験や就職にも影響します。
しかし、本当にそうした学歴優先型の育て方でいいのでしょうか。
私は、これが理想的な育て方とは思えません。
机の上だけが、勉強のすべてではないからです。
特に幼児期は、外での遊びを重視するほうが、学歴社会のレースは少し後退しますが、必ず後で伸びます。
豊富な経験は、学校のテストには反映されませんが、人生の至る所で反映されます。
友人とたくさん遊べば、人との付き合い方や適度な距離感を学ぶことでしょう。
また多くの経験によって、話題が豊富になったり、気持ちを理解しながら話を聞いたりできるようになります。
机上の勉強以外の部分が重要です。
それは学校のテストの点に表れない部分です。
しかし、人生では必要な要素です。
そういう人間関係がうまい人が、勉強でも友人と協力して情報交換ができて、効率のいい勉強が進められるようになります。
遊び方がうまくなれば、ストレス発散もうまくなり、長丁場の受験を乗り越える力になるでしょう。
後で追い上げる力になります。
スタートこそ出遅れることになりますが、あとからぐいぐい伸びて、トップを出し抜くことができるはずです。
外は、人の成長になくてはならない大切な刺激がいっぱいです。
では、生まれたばかりの赤ちゃんにいきなり外遊びさせればいいのかというと、そうではありません。
早すぎると、外は危険すぎます。
だからとはいえ、いつまでも室内だけでは刺激が限定されます。
では、肝心の外遊びは、いつから始めればいいのでしょうか。
これは逆の発想から考えると、わかります。
たくさん刺激に触れるためには、たくさん歩くことが必要ですね。
では、たくさん歩くためには、立てるようになることが必要です。
つまり「立って歩き始めてから」が、外遊びを始めてもいい基準と考えていいでしょう。
2本足で立って歩けるようになれば、基本的な足腰の筋肉がつき始めた証拠です。
たくさん歩ける機会があることは、たくさん運動ができて体が鍛えられ、たくさんの刺激によって脳の発達が促されることです。
成長には個人差がありますが、おそらく「1歳前後」になるはずです。
外遊びのデビューは、早いです。
幼すぎる時期ではありますが、外の刺激をできるだけ早くに与えるほうが脳の健康にも、いい影響を与えます。
ただし、注意があります。
親が必ずそばにいて、子どもが危険なことをしようとすれば、すぐやめさせるようにしましょう。
外を経験し始めたばかりですから、さまざまなことを挑戦しようとします。
大人が考えないような行動をする可能性がありますから、必ずそばにいるようにしましょう。
安全に多くの刺激に触れることができ、子どもの成長が促されるはずです。
外遊びをし始めるようになると、あらゆるものが気になって仕方ありません。
川の中の魚を捕まえようとしたり、畑の中で虫を捕まえたりしていると、着ている服はすぐ汚れます。
まさに「泥んこ」です。
私が子どものころは、泥んこになって家に帰ってくると、なぜか祖父や祖母が喜んでいました。
時には、靴があまりに汚れすぎて、はだしで家に帰ったこともあるくらいです。
汚れすぎて、靴を履いている場合ではありませんでした。
田舎に住んでいただけに、川や畑は有り余るほどあり、汚れる環境はそろっていました。
水口家の敷地内には、川が通っているくらいです。
服を汚して帰ると、親は不思議なリアクションを取ります。
「おっ。たくさん遊んで帰ってきたね!」
なぜか、喜びます。
普通なら、服が汚れれば洗濯の手間が増えるので、子どもを叱ることもあるでしょう。
なぜ、親は喜んでいたのか不思議ですが、自分が大人になってからわかりました。
服が汚れていることは、子どもが外で一生懸命に遊んで帰ってきた証拠だからです。
汚そうとすると、たくさん体を動かすことになります。
それが汚れた服や靴から、一目でわかります。
親にはこれほど嬉しいことはありません。
子どもが泥んこになって帰ってきたとき、あなたはどのようなリアクションをしていますか。
いま一度、自己チェックしてみましょう。
もし、汚い服で帰ってきたとき、子どもを叱ってしまうとどうなるでしょうか。
子どもは外に出て遊ぶとき「服を汚したら親に叱られる」と不安になり、思いきり体を動かして遊べなくなります。
川の中に気になる魚がいても「汚れるからやめよう」と思うでしょう。
畑の中にはいりたくても「汚したら叱られるからやめておこう」となります。
これではせっかく外で遊んでいても、十分に生かしきれていません。
子どもは毎日遊んで泥んこになるほど遊びができて上等です。
親は、子どもが泥んこになって帰ることを許してあげましょう。
むしろ「よく遊んできたね。偉い」と褒めてあげるくらいでいい。
子どもはもっと褒めてもらいたいと思い、外遊びに積極的になるはずです。
それが、多くの刺激に触れる経験になり、脳の発育に良い影響を及ぼすのです。
私の実家の近くには、神社があります。
歩いて1分の近場です。
その神社には、ブランコ・鉄棒・滑り台など、遊具がありました。
それから野球やサッカーができる広場もありました。
近いので、外で遊ぶときにはその神社を思い浮かべるほどよく遊んでいました。
昼間は子どもたちにとって絶好の遊び場でした。
しかし、その楽しいはずの神社は、夜になると一転します。
電球は1つもなく、まさに真っ暗。
月明かりでほのかに見える程度です。
祖父からは「神社は神様の家だよ」と教わっていました。
「悪いことをしたら鬼が出てくる。神様に叱られる」と脅されてもいました。
夜、家の外に出て神社を見ると、本当に真っ暗です。
何も見えません。
都会の夜とは違い、電球1つもない夜の神社というのは、本当に闇です。
しかし、子どもは不思議です。
親から「お化けがいるよ」と言われると、暗闇の中から本当にお化けが出てくるのではないかと、想像を膨らませてしまいます。
私は怖くて夜の神社だけは近づけませんでした。
何もない真っ暗闇の神社を見て「こんなお化けかな」「こんな妖怪がいるのかな」とさまざまな妄想を膨らませていました。
当時、特に大きな影響を受けていたのは、水木しげるさんの名作『ゲゲゲの鬼太郎』です。
作品に描かれる数多くの妖怪たちが、本当に神社にはいると思って、尻込みしていました。
夜の神社は、あまりに怖くて1人では近づけなかったのです。
私は以前、フィットネスクラブでウォーキングマシンを使っていた時期があります。
たまたま家から5分のところに5階立ての大型フィットネスクラブができました。
最新のトレーニングマシンに、プール・ダンスフロア、しかもお風呂とサウナまで付いています。
それが会員になれば、1日何度でも利用できます。
物珍しさも後押しして、さっそく通うことになりました。
そこで出会ったのは、最新式のウォーキングマシンでした。
スピードのコントロールはもちろんのこと、消費したカロリーや距離など多くの機能が盛り込まれています。
「これはすごいぞ。続けられそうだ」
しかし、そう思ったのもつかの間、1カ月も経たないうちにやめてしまいました。
たしかに汗はかけ、いい運動はできますが「飽き」がすぐやってきて、長続きしません。
おかしな話ですが、歩いているのに、なぜかうつらうつら眠くなります。
せっかく専用のウォーキングシューズを買っていましたが、数回使って終わりでした。
なぜ、すぐ飽きを感じやすいのか。
それは現実のウォーキングに比べると、はるかに刺激が乏しいからです。
外で歩く散歩とウォーキングマシンを使った散歩は、似て非なるものです。
風景の変化、においの変化などがなく、まさに「ただ歩いているだけ」。
私たちが普段散歩をしているときには、さまざまな刺激を受けて反応しながら歩いています。
たとえば、30分間の散歩をするとします。
外に出てから、最初に「今日はどのルートを歩いて行こうかな」と、コースを考えます。
周りの風景を楽しみながら、すれ違う人とぶつからないように気をつけたり、挨拶をしたりするでしょう。
散歩で体を動かすのは、ほんの一側面です。
意外にも、体以外の刺激を多く受けています。
私は、それからウォーキングマシンをやめて、フィットネスクラブに通うのをやめました。
代わりに、会社の行き帰りを片道1時間半かけて、歩いて通うことにしました。
そのほうが健康的です。
刺激があふれていると思ったからです。
私が小学生のころは、遊びに門限がありました。
夕方の6時ごろです。
6時を過ぎると、親からひどく叱られるので、いつも時間を気にしながら遊んでいました。
自転車で10分ほどの距離にある友人の家に遊びに行き、6時までしか時間がないので、かなり一生懸命に遊んでいました。
室内で遊ぶなら、部屋に時計があるのでいいですが、大半はやはり外で遊ぶことが多いものでした。
神社で野球をしたり、かくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたりします。
そのため、私は親からいつも防水の頑丈な時計を持たされ、時間になったら帰ってくるように言われていました。
時計を持参する小学生も珍しかったと思います。
しかし、今になって思えば、この制限時間が良かった。
制限されているがゆえに「一生懸命に遊ぼう」という気持ちに拍車がかかりました。
「野球なら、6時までに何試合できるか」
「もっと楽しむためにはどうすればいいのか」
「制限時間内に、ほかの遊びはできないか」
遊びの仕方を工夫しようとします。
怠けがなくなり一生懸命になるようになります。
遊んでいる最中に「休んでいる暇などない!」と思ってしまいます。
最初から遊びが濃かったのではなく、時間を意識していたからこそ遊びが濃くなっていました。
その時間内に、なんとかやれるだけの遊びはやっておこうと思っていました。
子どもに門限を設けないのは、良くありません。
子どもが遊びに夢中になると、いつまでも遊び続けます。
そもそも子どもが夜遅くまで遊び続けるのは危険です。
夜になると視界が悪くなり、交通事故に遭う危険が高まります。
子どもに外遊びをさせるときには、時計を持参させ門限をつくるほうがいい。
時間を意識させるのに早すぎることはありません。
過剰なタイムプレッシャーはストレスになりますが、適度なプレッシャーは頭を活性化させる良い刺激へと変わるのです。
あなたは旅行がお好きですか。
おそらくこれまで何度か旅行を経験したことがあるでしょう。
私も旅行が大好きです。
特に海外旅行は好きで、お金はかかりますがよく出かけています。
旅行をしたことがあればわかっていただけると思いますが、旅に出る前と後とでは、自分の中で確実に変化があります。
世界観が広がり、器が広がった実感があります。
心からの充実感、心地よさ、達成感があります。
なぜでしょうか。
遠くの土地へ赴き今まで見たこともない物を見て「世の中にはこんな世界があったのか」と感動するからです。
このとき脳内では、新しい刺激を受け入れようと活性化されています。
古今東西、旅行が人気なのは、すべての人間の心に冒険心が隠れているからだと思います。
遠くへ行こうという気持ちは「新しい刺激に触れて、自分の領域を広げたい」という野心や冒険心の現れです。
人類は、現在の南アフリカで誕生したといわれています。
食料を求める事情に加え、野心と冒険心が後押しして、ヨーロッパやアジア地方へ進出し、さらにはアメリカ大陸へも進出しました。
すべての人の心には、潜在的に野心と冒険心が眠っています。
古今東西、旅行は人気娯楽です。
その第一歩は、すでに子どものときから始まっています。
幼い子どもには、外遊びが十分な冒険になっています。
外で遊ぶというのは、野心と冒険心の表れです。
最初は、外で遊び、行ったこともないところに行きたがろうとします。
「世の中にはこんな世界があったのか」と多くのことに感動していることでしょう。
「もっと遠くに行ってみたい」と言い始めれば、安全面を考慮しながら、できるだけ実現させてあげましょう。
遠くに行きたがろうとするのは、い良いよ成長を求める心の現れです。
世界観を、ゆっくり広げようとしています。
子どもには、少し遠くに出かけることが、すでに大冒険なのです。
子どもが外で遊ぶときに、常に付きまとう問題は「迷子」です。
1人で外に遊びに行けば、つい遠くまで行きすぎてしまい、うっかり道に迷うこともあるでしょう。
では、友人と一緒なら安全でしょうか。
友人と一緒とはいえ、必ずしも迷子にならないとは限りません。
友人から「行ってみよう。大丈夫だよ」と言われるからこそ、遠くまで行きすぎてしまい、迷子になってしまうこともあります。
そうした万が一を考慮して、子どもの持ち物には必ず名前や連絡先を書いておくようにしましょう。
大人の場合は、自分の持ち物に名前を書く習慣を持つ人は、大変少ないと思います。
自分たち大人がしていないので、子どもにもつい忘れがちになります。
携帯電話さえあれば、迷子になっても大丈夫とは限りません。
肝心の携帯電話をなくしたり、川に落としたりしてしまうこともあるでしょう。
そういう点では「持つ物」より「身につける物」に名前と連絡先を書いたほうが、確実です。
靴に名前を書いたり、洋服にも名前や連絡先などを書いたりしておけばいいでしょう。
迷子になったとしても、近くの大人に助けを求めれば最悪の事態は免れることができます。
子どもは潜在的に「遠くへ行ってみよう」という気持ちがあります。
遠くへ行かないと、子どもはいつまでも行動範囲を広げられず、成長ができません。
遠くへ行くと、新しい物が見られ、自分の世界観を広げられます。
これは子どものみならず、すべての人に共通する成長本能です。
そもそも子どもは遠くへ行きたがるものです。
しかし、子どもはよく迷子になります。
「道に迷う」と言うより「冒険をするから」です。
冒険しすぎて、歩いてきた道を戻れなくなり、迷子になってしまいます。
しかし、それに矛盾することをいう親がいます。
「遠くへ行ってはいけません」と親が言ってしまいます。
これは難しい問題です。
子どもの本音は遠くに行ってみたいですが、親は万が一のことがあってはいけないので「遠くへ行くな」と制限してしまいます。
遠くへ行ってさまざまな物を目にするからこそ、子どもの世界観は広がります。
一方、親からの制限は子どもの成長を阻害しているとも言えます。
何かこの矛盾を解決するいい方法はないのでしょうか。
実はあります。
親同伴で、遠くまで散歩に行けばいい。
親と一緒に、今まで行ったこともない遠くまで散歩すればいいでしょう。
子ども1人では迷子になっても、親と一緒なら問題ないはずです。
もし遠くまで行きすぎて、子どもが歩けなくなったら、親がおんぶすればいい。
安全かつ、子どもの意思を尊重させることができるのです。