人が子を産んだとき、重要な任務が与えられます。
「子を育てる」という大きな任務です。
子どもを産んだ瞬間から、人は親へとなり、子どもを育てなければならない任務が与えられます。
上手な子どもの育て方というのは、まずこの一言に集約されます。
「子どもにはたくさんの経験を積んでもらう。失敗しても親は叱らず、できるだけ許す」
これが、子どもが成長するポイントです。
まだ発達段階の子どもは、いろいろな失敗を犯します。
しかし、何もわからなくて知らない子どもたちが、失敗を犯すことは当然のことです。
むしろ子どもの仕事は、数え切れないほどの失敗を犯すことです。
教育とは「許す」と「教える」と言いました。
大切なことをもう1つ挙げると、すべて愛を持って行うようにしていくことです。
体を叩いて痛めつけることで教えるのではなく、愛を持った優しい言葉で教えていくことです。
子どもにとっての人生の手本は、どこにあるのでしょうか。
絵本の中でしょうか。
テレビの中でしょうか。
私は愛媛県の田舎で育ちました。
田んぼと緑に囲まれ、自宅からは山と海の両方を眺めることができる、自然を満喫するにはもってこいの場所です。
そんなところで幼少期はずっと暮らしていましたから、緑だけでなく昆虫にも大変親しみを持っています。
子どもに制限を与えてしまうことは、可能性を制限させてしまうことになります。
「あれもダメ。これもダメ」という教え方では「じゃあ、何をすればいいのか」と言うことになります。
特に子どもは「小さな暴れん坊将軍」です。
小学生のころ、私の机の引き出しには、いつも大量の紙が入っていました。
「勉強に必要だろう」と言われ、親から与えられていた紙です。
必要以上の紙を与えられていました。
私は生まれたときから親と共に暮らしてきましたから、親の行動パターンや考え方、理解力も手に取るようにわかります。
「これを言えば、親ならどう言うか?」
「こんなとき、親ならどうするか?」
子どもには「できなかったこと」より「できたこと」を中心に話を進めていくようにしましょう。
できなかった話は、できた話をした後ですることです。
初めに「できた」という話をして子どもを褒めて喜ばせてあげましょう。
子どもが習得する言葉は、親の言葉を聞いて身につけます。
言葉も何も知らない状態で生まれてきた赤ちゃんは、まず身近にいる親の言葉を耳にして、真似をして身につけていきます。
私もそうです。
強制には、注意です。
子どもに強制をさせると、一時的な効果はあっても、才能は伸びにくくなります。
才能は、自分のやりたいことを進んでやるときに伸びていきます。
私は子どものころから、親によその子と比べられたことはありませんでした。
近所には何人か同世代の友人はいましたが「あそこの子がやるから、貴博もやりなさい」とは言われませんでした。
同世代の子が近所にいれば、競争の1つもしたくなるのが親です。
勝負では、他人と比べて勝つことではなく、自分が全力を出し切れたかどうかに意識を向けることです。
子どもを育てるときも、勝ったから褒めるのではなく、全力を出し切ったことを褒めるようにしましょう。
「子どもに褒めるところがない」と言う親がいます。
意外に気づかれていないことですが、子どもからお金を取り上げてはいけません。
特にお年玉のときです。
お年玉のときは、そのまま子どもに持たせてあげましょう。
子どもの仕事は、勉強です。
小学校や中学校では働くことは教えず、勉強ばかりをすることになります。
しかし、それは、勉強が子どもにとって必要なことであり、やがて大人になり、社会に出てから苦労しないためにするのです。
親は勉強しないのに、子どもにばかり「勉強しなさい」と言う親がいます。
そんなときに子どもは「親が勉強していないのに、なぜ自分だけ勉強しなければいけないのだろう」と、不満を抱きます。
やってもいない人に「やれ」と言われることが、子どもは理解できないのです。
兄弟がいれば、もちろん兄弟げんかが起こります。
私にも妹が1人いて、小さいころはよくけんかをしていました。
テレビのチャンネルの取り合いでけんかになったり、分け与えられたケーキの大きさの違いでけんかになったりなどです。
子どもはこの世に生まれて、見るもの、触れるもの、経験することのすべてが、初体験です。
生きていることそのものすべてが、学びといった状態です。
しかし、これは子どもだけに限った話ではありません。
子どもが人と仲良くやっていくための手本は、お父さんとお母さんの仲にあります。
子どもが生まれて初めて目にする人間関係は、お父さんとお母さんとの夫婦関係です。
当たり前のことと思うかもしれませんが、この事実にいま一度振り返っていただきたいと思います。
お父さんとお母さんが、子どもに手本の人間関係を見せていくときに1つ気をつけることがあります。
それは、悪口です。
身内だからとはいえ軽々しく身内の悪口を言ってはいけません。
私が親を見ながら育ち、今とても感謝していることの1つに、感謝をする習慣を身につけさせてくれたことです。
私の親はちょっとしたささいなことでも「ありがとう」と感謝する習慣があります。
手本である親がそうしていたから、私もそうするのが当たり前だという意識の元で育ちました。
「ありがとう」が言えない人は、社会に出てから苦労します。
いえ、社会どころか、人生に苦労することになります。
子どもができるだけ早くに身につけるべき習慣は、お世話になれば「ありがとう」と感謝する習慣です。
人間には3大欲があります。
「食欲」「睡眠欲」「性欲」の3つです。
これは人間が「生存」をするために必要不可欠な大切な欲求です。
人との世間話の最中、よそのお子さんの失敗や悲しい出来事など耳にするときがあります。
そんなときについ反射的に「うちの子に限ってそんなことはない」と思います。
他人のつらい出来事や失敗などはあくまでも他人の話であって、自分の子にそんなことはあり得ないと思ってしまうのです。
子育ての理想は、親のみに育てられることではありません。
近所のかたにも親のように怒ってもらえるほうが、子どものためになります。
つまりコミュニティー全体が1つの教育機関として機能するほうが、子どもは健全に育っていきます。
子育てで気をつけたいのは、子どもを否定する言葉です。
子育てにいらいらしても、子どもの人格や存在を否定する言葉には気をつけましょう。
たとえば、次のような言葉は禁句です。
子どもの短所を褒めることは、親の仕事です。
完璧な子どもなどいませんから、必ず欠点はあります。
欠点は褒めるべきではないことと思うでしょうが、本当に子を愛する親なら子どもの欠点さえも愛せます。
愛とは、無条件に大切にすることを言います。
決して見返りを求めるのではなく、無条件に大切にすることが愛なのです。
これはまた子育てにも言えることです。
子育ての最終的な目的があります。
子どもが1人でも生きていけるようにすることです。
いずれ親は、死を迎える日がやってきます。
人が子を産んだとき、重要な任務が与えられます。
「子を育てる」という大きな任務です。
子どもを産んだ瞬間から、人は親へとなり、子どもを育てなければならない任務が与えられます。
子どもがどう成長していくかは、実は、親の育て方しだいで決まってしまいます。
子どもの才能を咲かせることができるのかできないのかは、子ども本人より、親のほうにキーポイントが隠されています。
親の育て方で、子どもの一生が決定されてしまうというほど「育て方」は子どもの成長に大きく影響を与えてしまうことなのです。
だらしない子どもを見たときに、私たちはよくこんな言葉を耳にします。
「まあ、なんてだらしない子。親の顔が見てみたい」
まさに本質を突いた一言です。
育てている人に問題があるということです。
親の顔が見てみたいというのは、それだけ育てている人に大きな責任があり、子どもより親が大きな影響を与えているのです。
私が今、このように自分の好きなことをやり、才能を発揮できているのは、自分の努力より、親の育て方がうまかったからです。
私を裏で支え、力になってくれているのは親であり、ここまで成長を促してくれた親の「育て方」がうまかったからです。
番組では、少年犯罪、未成年による事件を取り上げて説明している場面をよく見かけます。
事件を起こしたのは少年であり、当然ながら少年に問題があると話しているニュースキャスターを見て、私はいつも残念に思います。
「本当に問題なのは、少年のほうではなく、そのように育ててしまった親のほうに問題があるのにな」
そう、心から強く思います。
少年犯罪のニュースを見るたびに、私は「親の顔が見てみたい」と、思ってしまうのです。
上手な子どもの育て方というのは、まずこの一言に集約されます。
「子どもにはたくさんの経験を積んでもらう。失敗しても親は叱らず、できるだけ許す」
これが、子どもが成長するポイントです。
人は誰でも、まず「無知」という状態から生まれてきます。
生まれてきたばかりの赤ちゃんは、まさに何も知らない何もわからないという「完全なる無知」の状態から生まれてきます。
ここがいわばこの世でいう、スタート地点です。
今でこそ人それぞれに個性や能力に差がありますが、生まれてきた瞬間はみな同じ「0(ゼロ)」の状態から始まるのです。
何も知らない赤ちゃんは、まず大人たちからの保護を受けます。
哺乳類の中でも、大人たちの保護を受けないと生きられないのは人間くらいです。
馬やヤギは私たちと同じ哺乳類でも、生まれてまもなくすれば自分の足で立つことができるようになります。
生まれてきたばかりでも、ほうっておけば自分の力で立ち、生きていけます。
親の力を借りずともなんとか自分の力で立つことができるのです。
シカやメダカでも同じです。
しかし、人間だけは違います。
生まれたばかりの赤ちゃんは、自力で生きられません。
人間ほど、生まれたばかりの状態が無力な生き物はありません。
大人たちの保護がなければ、必ずと言っていいほど赤ちゃんは立つことはおろか生きることすらできません。
まったくの能無しの状態なのです。
これほど無力で無知な状態から、あなたもこの世に生まれてきたわけです。
このことをよく理解しておけば、上手な子どもの育て方も次第に見えてきます。
何も知らないのですから、まず人は「失敗」を犯します。
これはあまりに当然のことであり、何も知らない人が失敗をしないというほうがおかしいことです。
親として子どもを育てるにあたっては「子どもは失敗をする天才である」ということを頭に叩き込んでおく必要があります。
どんな子どもでも、失敗をしない子どもはいません。
何をやるにも失敗します。
コップの水をこぼしたり、皿を割ったり、壁に落書きをしたり、やりたい放題です。
そんな子どもの暴れ回る姿を見て、親は決して怒ってはいけません。
手先がまだ発達途中である子どもは、コップの水をこぼしたり皿を割ってしまったりします。
また善悪の区別のつかない子どもは、壁に落書きをすることが悪いことだということも知りません。
子どもがそんな失敗を犯したときに「コラ! ダメでしょ!」と親が怒鳴るのは、子どもの気持ちを知らない、自分勝手な親です。
子どもは自分がなぜ叱られているのかわかりません。
上手にコップを持ちたくても、そんな気持ちとは裏腹になかなかうまく持つこともできません。
無力で無知な状態から生まれてきた人間が「できない、わからない、知らないことだらけ」であるのは当然なのです。
親は子どもの失敗に対して、寛大になることです。
失敗ごとにいらいらして怒鳴るのが、親の仕事ではありません。
子どもが犯す多くの失敗を、寛大な心を持って許すことが、親としての最初の心得です。
これは3歳や4歳の子どもたちに限らず、10歳・15歳・20歳になってからもそうです。
世の中で生きるためには、常にわからないことやできないこと、知らないことというのが付きまといます。
それに出くわしたときには、必ずと言っていいほど「失敗」をするということです。
この考え方は、人が生きていくうえで大きな支えになります。
まだ発達段階の子どもは、いろいろな失敗を犯します。
しかし、何もわからなくて知らない子どもたちが、失敗を犯すことは当然のことです。
むしろ子どもの仕事は、数え切れないほどの失敗を犯すことです。
これを前提にして、親は教育に取り組んでいただきたいと思います。
失敗の天才である子どもに対して、親は次のことを心得ておいてください。
「失敗に対して寛大になり、許してあげること。
失敗をしてしまったときは、どうすればいいのかを教えること」。
これが親の仕事です。
基本はたったこれだけであり、シンプルで単純なことです。
子どもの教育と言ってもさまざまなことがありそうですが、基本はたったこれだけのことなのです。
「許すこと」と、それに続く「教えること」が親の仕事です。
こう書けば、教育とはとってもシンプルだということに気づきますよね。
幼い子どもであるほど次から次へと失敗を犯します。
それらをまず許してあげて、なぜいけなかったのかどこがいけなかったのかを教えてあげるのです。
教育という字を見れば、明らかです。
教育という字は「教えて育む」と書きます。
まさに子どもの失敗に対して「許し」、正しい物事を「教えること」です。
私もまだ幼かったころ、数多くの失敗を犯してきました。
毎日親を困らせるのが、私の仕事と言ってもいいくらいでした。
私の幼少期は、最初からうまく物事をこなせた経験は、ほとんどありません。
うまくできなくて、周りに迷惑をかけた思い出ばかりです。
しかし、私の親はどんな失敗に対しても寛大であり、許してくれました。
決して怒鳴ることはなく、その代わりに「どうすればいいのか」を優しく教えてくれました。
また親でさえもわからないことは一緒になって考えてくれました。
こうした教育方法が、私の成長を伸ばしてくれたことは言うまでもありません。
教育とは「許す」と「教える」と言いました。
大切なことをもう1つ挙げると、すべて愛を持って行うようにしていくことです。
体を叩いて痛めつけることで教えるのではなく、愛を持った優しい言葉で教えていくことです。
恐怖や痛みを伴って教えられた教育ほど、子どもの心を曲げてしまう教育はありません。
たとえば次の2つは子どもの失敗への教育ですが、同じ内容のことを教えるだけでもこれほど差が出てきます。
この2つは同じ内容のことを教えていても、子どもの受け取り方はまったく異なります。
恐怖や痛みを伴った教育では、逆効果です。
痛みや恐怖というストレスが、子どもの心を曲げてしまい、そこから子どもの心が痛んでくるのです。
悪が生まれてくるのです。
愛のない教育は、子どもにとってむしろ毒となります。
子どものことを大切に思い、大事に育てていこうという気持ちが愛へと変わり、教育へと反映されます。
見返りを必要とせず、無条件に子を大切にしようとする愛を前提として教育を行っていくことが必要なのです。
子どもにとっての人生の手本は、どこにあるのでしょうか。
絵本の中でしょうか。
テレビの中でしょうか。
それとも、夢の中でしょうか。
子どもにとっていちばんの手本は、最も身近な存在である親です。
生まれたときからそばにいて、言葉も歩き方も礼儀やマナーも、親の真似をしながら覚えました。
先ほど私は、子どもは失敗する天才だと言いましたが、子どもにはもう1つの才能があります。
「子どもは、真似の天才です」
子どもは態度やマナーだけでなく、手本とする人をまるごと吸収してしまいます。
子どもは、手本である親から言葉や態度、礼儀やマナーだけでなく、性格や感情までも真似をして学びます。
そんな感情や性格は家庭の中で育まれ、特に親からの影響を最も強く受けて成長します。
親であるあなたの日頃の行いを、子どもは見ていないようで、しっかり見ています。
親たちは、親になる前に、まず人としてしっかりした人間でなければなりません。
私は子どものころから、親の影響を最も強く受けて育ってきました。
最も身近にいる人が親ですから、親から影響を受けざるを得ない状況でした。
この状況は私だけではなく、皆さんも同じことが言えるでしょう。
いつもそばにいるのは、お父さんとお母さんです。
私はいつも父と母からの影響を知らず知らずのうちに大きく受けていました。
どうすればいいのかわからなかったときには、すぐそばにいる両親を手本にしていました。
そんなことを子どものころから続けていれば、当然のことながら、私は親にそっくりな人間になってしまいました。
「カエルの子はカエル」という言葉があります。
カエルから生まれた子はやはりカエルであり、見た目も性格も動きも同じだという意味です。
私も『カエルの子はカエル』であり、自分は親とそっくりな性格だなとつくづくそう思います。
読者の中には「水口貴博の親は、どんな親なのだろうか」と、ふと疑問に思ったかたもいるのではないでしょうか。
私のような人間です。
考え方や行動は、私にそっくりです。
というより、私のほうが親の考え方や行動にそっくりなのです。
今の私は、手本である親の影響を受け、今に至っているわけです。
さて、本題へ戻ります。
以上のようなことを踏まえると、子どもを立派に育てるためには手本である親が、まず立派な人間でなければいけません。
子どもを育てるということは、子どもに対してだけでなく、実は自分を磨くことでもあるのです。
磨かれた素晴らしい親からは、子どもは素晴らしい影響を受けていきます。
親は何もしていないつもりでも、その存在そのものが、2つとない手本になるのです。
意外なことと思うでしょうが、子育てのためにはまず自分磨きを行うことです。
親であるあなたが素晴らしい人なら、子どもはあなたを手本に、しっかり育っていってくれるのです。
私は愛媛県の田舎で育ちました。
田んぼと緑に囲まれ、自宅からは山と海の両方を眺めることができる、自然を満喫するにはもってこいの場所です。
そんなところで幼少期はずっと暮らしていましたから、緑だけでなく昆虫にも大変親しみを持っています。
カタツムリやカマキリ、ホタルやトンボ、アメンボ、チョウなど、昆虫たちとはひととおりの付き合いをしてきました。
自然だけでなく昆虫たちにも囲まれていると、自然と虫取りをしたくなります。
私が「チョウが欲しい」と言うと、母はチョウではなく、虫取りアミを与えてくれる人でした。
欲しいという物をそのまま直接に与えるのではなく、手に入れるための「手段」を与えてくれる人でした。
私はいつも、その虫取りアミを持って緑を駆け巡ります。
チョウ1匹とはいえ、捕まえるためには苦労するものです。
実体験を通して「自分の力で手に入れる喜び」を、自然から教えられました。
後になるほど、あのときの母の教育は抜群だったということに気づきます。
子どもの成長のためには「物」を与えるのではなく「手段」を与えることが大切です。
子どもは与えられた手段で、どう手に入れようか頭を使って考え始めます。
虫取りアミだけを手渡されて、手段を手に入れたとしても、チョウをなかなか捕まえられずに苦労をします。
チョウが隠れていそうなところはどこだろうかと考えます。
手際よくチョウを捕まえるために、飛び方を観察します。
このように母はいつも私に「手段」を与え、私は手段を使ってどうやりたいことを叶えていくかを考えます。
母は決してすべてを援助することはなく、手段だけを与えて残りの努力は本人にさせる方法で育てていました。
この教育方法が、私の今の力につながっています。
やりたいことをまず真っ先に頭に思い浮かべます。
何でもかまいませんから、自分がいちばん叶えたい夢を頭に思い描きます。
それを叶えるためのあらゆる手段や方法を、手当たりしだいに思い浮かべます。
そして、自分にできるであろう最も効率の良い方法で夢に近づいていきます。
時には自分に合った手段がない場合もあります。
そんなときは、自分で手段をつくってしまいます。
こうした行動の原点は、幼いころに母が私に与えた「虫取りアミ」にあったのです。
子どもが欲しいと言うものを何でも与えてしまう親がいます。
しかし、本当に子どもの成長を願うなら、直接に物を与えるのではなく、そのための手段を与えるほうがいいのです。
子どもにははじめこそ苦しく感じるかもしれませんが、自分の力で手に入れる喜びを知る良い機会となるのです。
子どもに制限を与えてしまうことは、可能性を制限させてしまうことになります。
「あれもダメ。これもダメ」という教え方では「じゃあ、何をすればいいのか」と言うことになります。
特に子どもは「小さな暴れん坊将軍」です。
目の前にあることに力加減をすることなく、思いきってぶつかっていきます。
これが子どものお仕事なのです。
暴れて当然。
そんなときに「あれもダメ。これもダメ」と言ってしまうのは、子どものお仕事を取り上げてしまうことになるのです。
人の迷惑になるようなことでなければ、どんどん思いきってやらせてあげるほうが子どもには健全なのです。
私は小さなころから機械が大好きでした。
もともと私の父が機械関係の仕事に就いていたため、家の中には常に機械の部品が転がっていました。
そのために物心ついたときから、よく機械を使って遊んでいました。
コンデンサー、集積回路、スクリュードライバーを使って、機械を組み立てたり分解してみたりと、好きなことをし放題でした。
親は決して「それ以上はやるな」とは言いませんでした。
「好きなだけやりなさい」という許可を与えてくれました。
そのおかげもあって、私は興味のあった機械を思いきり体当たりできました。
そこで身についた知識や知恵が、今に生きています。
私がコンピューター関係の仕事に就いたことも、パソコンの知識を身につけサイトを立ち上げたことも、ここから由来しています。
子どものころに思う存分好きなことをさせてくれたおかげで、今の自分の力になっているのです。
子どものころに自分の人生を決める大きなことをやっていたのかと思うと、幼少期の教育は大切であることを思い知らされます。
これは私だけの話ではないはずです。
往々にして人生の道を決めるような「最初の1歩」は、ほとんどの場合、子どものころにあります。
子どものころに何に興味を持ち、どれだけ打ち込んだかがその人の一生を決めていきます。
子どもは暴れることが仕事だと言いました。
子どもが大人になってしっかり仕事をするためにも、子どものころに好きなことをどんどんやらせてあげないといけないのです。
子どもに対して「ダメ」という制限を与えることは、子どもの将来をつぶすことになりかねません。
それ以後の子どもの人生を大きく左右するほどの体験を制限されてできなければ、子どもは何をすればいいのでしょうか。
親の言うことをよく聞き、じっとしている子どもがいい子どもなのではありません。
親が発狂してしまいそうなほど、暴れん坊であることが子どもの仕事であり、将来への道につながるのです。
小学生のころ、私の机の引き出しには、いつも大量の紙が入っていました。
「勉強に必要だろう」と言われ、親から与えられていた紙です。
必要以上の紙を与えられていました。
白紙の紙が引き出しの中にあり、いつでも何でも自由に使わせてくれました。
私にも好都合でした。
紙の制限を考えることなく、好きなだけ勉強に使うことができました。
おかげで、書くことに自由がありました。
文章を書く能力は、このときが始まりでした。
小学校の低学年から、何かあると机の引き出しを開けて、紙に書いていました。
勉強に必要な紙は、使い放題でした。
そのほか、ちょっとしたメモ用紙としても活用していました。
このとき、書く楽しみを味わうことができました。
今、大量の紙を与えてくれた母に感謝しています。
あのときに思いきり書く経験ができたから、描く喜びを知りました。
子どもには、紙を自由に与えましょう。
真っ白い紙から、可能性が広がります。
勉強に必要な紙としても使えるでしょう。
絵を描くための画用紙として使うこともあるでしょう。
アイデアを書き留めるメモ用紙としても使えるでしょう。
紙を破っても折っても、自由にさせます。
自由に紙を与えることで、可能性も広がるのです。
私は生まれたときから親と共に暮らしてきましたから、親の行動パターンや考え方、理解力も手に取るようにわかります。
「これを言えば、親ならどう言うか?」
「こんなとき、親ならどうするか?」
生まれてずっと一緒に暮らしてきている親なら、こういうことはいつの間にかわかってくるようになります。
私の父は、器の大きい人です。
少々のことで動揺することはなく、いつも物事を冷静に見て判断しています。
そんな父親を見ているといつの間にかその「思考パターン」や「考え方」が私にも移ってくるのです。
このように私は今、いろいろな物事について書くことができていますが、父親の器の影響をとても大きく受けています。
親の器の大きさによって、子どもの器の大きさも変わってきます。
親の器が大きければ大きいほど、子どもの器も大きくなります。
子どもがどれだけ大きな器を手に入れるかは、意外なことに親の器の大きさにかかっているのです。
器とは「理解力」と言えばわかりやすいことでしょう。
いろいろな出来事やトラブルなど、それらを大きく受け入れて包み込む根底には、大きな「理解力」があるのです。
理解力があれば「こんなこともある。あんなこともある」とトラブルやいざこざがあっても冷静に判断できます。
1つ同じ屋根の下で家族が暮らしていれば、いろいろな状況においてトラブルや話しあわなければならないときも出てきます。
そんなときの親の対処を、子どもはじっと見ています。
親は父でも母でも同じです。
こういうときに親はどう出るのかという場面では、子どもはじっと親を観察して見習っているのです。
子どもは親のようにそっくりになり、それ相応の理解力を持つようになるのです。
子どもには「できなかったこと」より「できたこと」を中心に話を進めていくようにしましょう。
できなかった話は、できた話をした後ですることです。
初めに「できた」という話をして子どもを褒めて喜ばせてあげましょう。
一生懸命にできたことに対して、子どもはいつも褒めてもらいたい気持ちを抱いています。
もっと注目をされたいし、もっと親の笑顔が見たいと思っています。
子どもはそれを原動力に一生懸命になるのです。
にもかかわらず、子どもに対して「できなかった話」ばかりをする親がなんと多いことでしょうか。
「なぜできなかったの!」
「ダメでしょ! もっとしっかりやりなさい!」
こうしたマイナスでネガティブな言葉ばかりを並べ、子どもを叱り、落ち込ませます。
親はこのように叱って子どもを育てることが良いことだと思っていますが、実際にこれでは逆効果です。
一生懸命すれば、失敗も出てきます。
にもかかわらず、その一生懸命にやって出てきた失敗を突っついては、子どもは何も行動しない子になります。
何もしないことがいちばん失敗を回避できる方法だからです。
子どもにしてみれば、叱ってばかりいる親がだんだん苦手になります。
すればするほど怒るなら、何もしないのがいちばんになるからです。
まずは「できた話」からしましょう。
「ここまでできた。ここまでやることができた」という親の笑顔が見たいのです。
子どもが習得する言葉は、親の言葉を聞いて身につけます。
言葉も何も知らない状態で生まれてきた赤ちゃんは、まず身近にいる親の言葉を耳にして、真似をして身につけていきます。
私もそうです。
あなたもそうです。
私は気づいたときから、親からの言葉のシャワーを浴びて、言語を身につけてきました。
「気づいたとき」というほど、本当に生まれてすぐの状態からです。
今の私の言葉遣いは、私の両親にとてもそっくりになっています。
親からの言葉遣いほど、子どもの言葉遣いに影響を与えることはありません。
ドラマや漫画の世界で、しゃれた言葉遣いなどはありますが、基本は必ず親から受け継いだ言葉です。
親の口癖と言ってもいいでしょう。
親は子どもに言葉を教える以前に、まず親の言葉遣いをチェックしてみましょう。
言葉遣いと言っても、日本語そのものだけでなく、口癖も含めた言葉遣いです。
たとえば、次のような口癖になっていませんか。
「そんなことしなければ良かったのに」
「あのころは楽しかったな」
「どうせできるわけがない」
「ダメだ。できない」
こんな言葉遣いは、要チェックです。
こうしたネガティブな言葉遣いでは、子どもの言葉もネガティブな言葉遣いになります。
言葉には、ポジティブなニュアンスが込められた言葉遣いと、ネガティブなニュアンスを含んだ言葉遣いがあります。
前向きな考え方が含まれている言葉遣いは、子どもの言葉遣いもポジティブになり、前向きな子どもに成長させていきます。
親がマイナス思考でネガティブな言葉遣いになっていると、子どもにも移ってしまい、ネガティブに考える子に育ってしまいます。
「言霊」という言葉があるように、言葉の影響は強大です。
まず親が、ポジティブな言葉遣いになることです。
嘘でもいいから、明るく前向きな言葉を使うことです。
子どもにも、ポジティブな言葉遣いが移っていくのです。
強制には、注意です。
子どもに強制をさせると、一時的な効果はあっても、才能は伸びにくくなります。
才能は、自分のやりたいことを進んでやるときに伸びていきます。
子どもがやりたがることは、どんどんやらせてあげましょう。
やりたがらないことは、やらせないほうがいいのです。
私の家庭では、子どもの勉学で、無理やり塾に行かせようとしませんでした。
理由は簡単で、私が「行きたくない」と拒んでいたからです。
母はそれを聞いて「じゃあ、行かなくてもいい」と許してくれました。
母はいつも、こう言います。
「嫌がることをやらせても、本当に身につかない。無理に行かなくてもいい」
母は、私に勉強を強制させることはありませんでした。
おかげで私は、勉強を強制させられた記憶はありません。
小学校時代、一度も塾に通うことはありませんでした。
初めて塾に通い始めたのは、中学1年のときでした。
理由は単純です。
私が「行きたい」と言い始めたからです。
親から勉強を強制されていないと、不思議なことに、勉強がしたくなります。
当時は、クラスのほとんどが塾に通っていました。
周りの友人が楽しそうに塾の勉強を話していたため、自分も行ってみたくなったのです。
親が、子どもの気持ちを尊重してくれたおかげで、勉強を嫌いになることもありませんでした。
勉強を始めるきっかけにもなりました。
今になって思えば、そういう流れを母は期待していたのかもしれません。
私は子どものころから、親によその子と比べられたことはありませんでした。
近所には何人か同世代の友人はいましたが「あそこの子がやるから、貴博もやりなさい」とは言われませんでした。
同世代の子が近所にいれば、競争の1つもしたくなるのが親です。
しかし、あえて競争を強制させなかったことで、幼少期からのんびり過ごすことができました。
というのも、親がのんびり屋なので子どもに対しても大きな脅迫を与えることはなく、親の性格が教育にも表れていたのです。
中には競争をすることで、やる気を出して伸びていく子もいることは、たしかです。
資本主義のように、競争させて勢いづかせるのは単純で簡単な方法です。
しかし、いちばんになれなければ、その人は不幸となってしまうのです。
オリンピックを見ていると、金メダルの人が喜んでいるのはいいのですが、銀メダルの人に笑顔がない場面をよく目にします。
むしろ落ち込んでいるという表情です。
世界には何十億の人がいて、世界で2番目という結果は大変優秀なことです。
にもかかわらず素直に喜べない背景には、やはり他人と比べるという「競争」があるからです。
競争をしていると、いちばん以外は全員不満が残る結果になります。
競争は長所もありますが、短所もあることを知っておかなければなりません。
一方、そんなオリンピックでも銀メダルや銅メダルでも金メダルの人以上に大泣きしている人も見かけます。
それは他人と比べる競争でオリンピックに出たのではなく、自分と戦い、悔いの残らないほど全力を出し切れた人です。
他人と比べることは後の話で、まずなにより自分が自分と戦い、全力を出し切る戦いができた人なのです。
このように競争をしないほうが、精神的には大きな喜びを得ることができるようになります。
子どもの教育も同じで、近所の子と比べては切りがありません。
それは世界一の優秀な子にならなければ、本当に喜んではいけませんよと言っているようなものです。
喜びを得るということは、本来そうした難しいことではありません。
自分の全力を出し切れたら、それで素直に大喜びしていいのです。
比べるということは、常に他人とすることではなく、自分とするものです。
決してよその子と比べて、勝ったから喜ぶというのではないのです。
勝負では、他人と比べて勝つことではなく、自分が全力を出し切れたかどうかに意識を向けることです。
子どもを育てるときも、勝ったから褒めるのではなく、全力を出し切ったことを褒めるようにしましょう。
「子どもに褒めるところがない」と言う親がいます。
そんな親は、決まってご近所の子と比べている親です。
いつも自分の子どもを、よその子と比べてばかりいるために、長所より短所のほうが際立って、目につくのです。
できることは当たり前のことと思い、できないことばかり口にして子どもを落ち込ませています。
できないことばかりに目が向いてしまっているため、子どもを褒めることが少ないのです。
子どもには、褒めるべき点がたくさんあります。
一生懸命になったときや全力を出し切ったときは、間違いなく褒めるべき瞬間です。
子どもの日常では全力を出すべき瞬間はたくさんありますから、それだけ褒める瞬間もたくさんあります。
私は子どものころ、走るのが速かったため、運動会ではよくリレーの選手として出させてもらっていました。
運動会にはもちろん親も見に来ています。
「じゃあ、今からリレーに出てきます」と言うと、いつも親は「全力を出し切ってきなさい」と私に言いました。
決して「A君に勝ってきなさい」という言い方はしませんでした。
自分に対して常に全力なら、常にベストな状態であると言えます。
それでいてリレーの結果がどうであろうと、私が全力を出し切ったなら、それだけで褒めてくれます。
当時は子どもだった私ですが、このように育ててもらったことが、今では大きな財産になっています。
意外に気づかれていないことですが、子どもからお金を取り上げてはいけません。
特にお年玉のときです。
お年玉のときは、そのまま子どもに持たせてあげましょう。
子どもには普段、手にすることのない大金を手に入れる瞬間です。
そのときに「子どもがそんな大金を持つものではありません。お母さんが預かっておきます」と言う親がいます。
それは子どもからお金の勉強をする機会を取り上げているのと同じです。
子どもが慣れない大金を持ち、心配する気持ちはわかります。
しかし、子どもにはできるだけ現金の形でお金を持たせ、できるかぎりお金の勉強をする体験をしてもらわなければなりません。
「しなければならない」というのは、学校では教えてくれないことだからです。
学校では国語や算数の勉強をさせることはあっても、お金の勉強をさせることはありません。
お金の勉強ほど、すべての人に必要で大切な勉強はありません。
しかも使い方を間違えれば、自分の生活だけでなく、人生にも影響するテーマです。
にもかかわらず、学校ではこれほど大切な勉強を一切教えてくれないのが現状なのです。
親は、できるだけ子どもに早い段階からお金について勉強させておく必要があります。
お年玉で子どもにある程度まとまったお金が入ってきても、親は決して子どもからお金を取り上げてはいけません。
子どもにはたとえ100円でも、100円なりの使い道があります。
当然、まだ子どもですからお金の使い方は下手で、めちゃくちゃな使い方になるでしょう。
怒りたくなる使い方をしても、口出ししません。
失ったお金で、子どもが苦しむ機会を、ぜひ与えていただきたいと思います。
お金に苦しむことで、金銭感覚が磨かれます。
私の場合、子どものころからお年玉で得たお金は親から取り上げられるということはありませんでした。
「貴博君、これ、お年玉ね」と親戚からお年玉をもらいました。
いつもは手にすることのない大金を手にする瞬間です。
それを横で見ていた親は「そのお金は貴博のお金だから自分の責任で管理しなさい」といつも言っていました。
決して親がお金の管理が面倒なのではなく、私にお金の勉強をさせるために、わざとお金を取り上げずに持たせていました。
そのおかげで子どものころの私は、数え切れないほどのお金の失敗があります。
必要もないのに買ったこと、衝動買いをしたこと、お財布をなくしてしまったこと、通販にはまってお金をだらだら使ったこと。
こうしたお金の誤った使い方をしていても親は「それは貴博の責任」と言って、冷たくあしらうだけです。
私はお金の使い方の失敗をしたことで、お金に対する勉強ができていました。
1,000円は大人から見れば大した金額ではありませんが、子どもには1,000円でも大きなお金に見えます。
しかし、まだ子どものころにお金の失敗をするなら、人生をひっくり返してしまうような失敗をすることはありません。
むしろお金の勉強をしないまま大人になってしまった人が、お金の使い方を誤り、人生をひっくり返してしまうことになります。
年を取るにつれて、お金の失敗は許されません。
できるかぎり子どものころからお金は現金で持たせ、使い方の経験をさせたほうが将来、お金の使い方が上手になるのです。
子どもの仕事は、勉強です。
小学校や中学校では働くことは教えず、勉強ばかりをすることになります。
しかし、それは、勉強が子どもにとって必要なことであり、やがて大人になり、社会に出てから苦労しないためにするのです。
将来のために、子どものころは一生懸命に勉強をする必要があります。
一般的な常識や知識などは、社会に出てから必ず役立ちます。
もちろんなかには、社会に出ても使いもしない知識を得ることもありますが、無駄も知識の1つのうちになります。
しかし、もう1つ親が見落としてしまいがちな大切な勉強があります。
それが「遊び」です。
遊びも子どもには立派な仕事であり、やがて大人になり社会に出たときにうまくやっていくために必要な勉強です。
遊びがうまくできないと、うまく息抜きのできない大人になります。
頭の切り替えや気分転換など、そうした息抜きは社会人として必要な技能です。
たくさん勉強をするのもいいのですが、たくさん遊んでいくという経験も大切です。
親は勉強しないのに、子どもにばかり「勉強しなさい」と言う親がいます。
そんなときに子どもは「親が勉強していないのに、なぜ自分だけ勉強しなければいけないのだろう」と、不満を抱きます。
やってもいない人に「やれ」と言われることが、子どもは理解できないのです。
子どもの仕事は、真似をすること。
真似をすることが仕事であるにもかかわらず「やれ」と指示する本人がやっていなければ、真似ができません。
子どもに勉強をしてほしければ、親こそ、勉強する必要があります。
親が勉強をしていれば、自然と子どもも勉強するようになります。
親が勉強と言っても、大げさな勉強をする必要はありません。
雑誌や漫画を除き、自分の好きなジャンルの本を買ってきて、読書すればいいのです。
わざとらしく子どもに見せるかのように読書すればいいでしょう。
親も学びごとをしているとわかれば、自然と子どもも真似て勉強したくなります。
私が初めてパソコンを触ったのは、小学校4年生のときでした。
当時は何十万もする大きなパソコンを、父が仕事で使うために購入しました。
まだ小学4年の私には、難しそうな機械に見えました。
それからというもの父がパソコンのキーボードでなにやらぱちぱちタイピングをして、仕事をするようになりました。
小さいころからそんな様子を見ていましたから、自然と私も興味を持つようになりました。
子どもは親のしていることを真似したくなります。
そんなある日、父にパソコンを触らせてもらう日がやってきます。
私がパソコンを初めて経験した瞬間でした。
パソコンへの難しいとかややこしい気持ちは、父が使っているところをずっと見ているとどこかへ吹き飛んでしまいます。
子どもは、親が楽しそうに行っていることを真似したくてたまらないのです。
私が機械系に対して抵抗がないことも、父がパソコンを使っている姿から「そういうものなんだ」と学んだわけです。
兄弟がいれば、もちろん兄弟げんかが起こります。
私にも妹が1人いて、小さいころはよくけんかをしていました。
テレビのチャンネルの取り合いでけんかになったり、分け与えられたケーキの大きさの違いでけんかになったりなどです。
子どものころのけんかというのはたわいないことから始まります。
私は妹とけんかをしていたとき、母がちょうどやってきます。
「どうしたの。なぜけんかしているの」と、尋ねてきたので、私は「妹のケーキのほうが大きい。ずるい」と言いました。
てっきりうまく仲裁をしてくれるのかと期待していましたが、外れました。
「あ、そう。じゃあ自分たちで、なんとかしなさい」
一言冷たく言って、終わりです。
けんかの理由が大事ではないことを知った母は、自分が介入するほどのことではないと思ったのでしょう。
それから母はどこかへ行き、私たちは放置の状態になりました。
「自分たちでなんとかしなさい」と一言で締めくくられると、あっけなさに、けんかの熱も冷めます。
子どもは親に「自分たちでなんとかしなさい」と言われると、困ります。
「これ以上、けんかをしても意味がない」と思うのです。
そこで私と妹は、仕方なくではありましたがなんとか「仲直り」をしていました。
けんかをすれば仲直りというのが、1つのセットです。
けんかをしたままで終わらせてはいけません。
そこで仲直りが必要であり、その仲直りをする経験も親が奪ってはいけないのです。
仲直りも子どもには大切な勉強です。
親が仲介してうまく取り繕っては「仲直りをする機会」を取り上げてしまいます。
意外なことと思うでしょうが、子どものけんかはほうっておきましょう。
他人に迷惑をかけたり、命に関わったりするいざこざなら、もちろん親がしっかりしなければなりません。
しかし、そうでなければほうっておいてもいいのです。
仲直りも、お金の勉強と同じように、学校では教えてくれないことです。
学校でけんかが起きると、必ずといっていいほど先生が飛んでやってきます。
先生が間に入り、うまく取り繕いますが、自分たちの力で仲直りする機会を奪っているだけです。
こうなったら仲直りをする勉強は、日常しかありません。
親はけんかの事情だけを聞いて大きな問題ではないことがわかれば「後は自分たちでなんとかしなさい」とだけ言えばいいのです。
はじめこそ親が仲介して「仲直りとはどういうものなのか」「どうすればいいのか」ということを教えます。
しかし、いったん基本的なことさえ教えれば、後は子どもたちの力で仲直りをさせるのです。
最初はうまく仲直りができないかもしれませんが、数をこなせばうまくなるというものです。
仲直りができるようにならなければ、大人になってから大変に苦労をします。
友人関係で揉めたり、恋人関係で揉めたり、お金のことで揉めたりと、何かとけんかをしてしまう機会は多くあります。
子どものころから仲直りの練習をしておかないと、大人になってからうまく仲直りができなくなってしまうのです。
子どもはこの世に生まれて、見るもの、触れるもの、経験することのすべてが、初体験です。
生きていることそのものすべてが、学びといった状態です。
しかし、これは子どもだけに限った話ではありません。
初めて自分の子を産んだときから、親は、初めての「子育て」の始まりです。
ということは親にとっても、子どもに対して、やることなすことどれも初体験ということです。
親だから生きている時間こそは長いのですが、初めての子育てという意味では初体験に変わりはないのです。
この前提をしっかり意識していれば、親は決して横柄になることはありません。
むしろ親のほうが、子どもから学ぶことがたくさんある、と気づくはずです。
親も初めての子育てです。
「どうすればいいのかわからない」という状態です。
大切なことは、親が子どもからも学ぶことがたくさんある意識を持つことです。
学んでいる人は、子どもだけではなく、親も同じなのです。
子どもと一緒に学んでいく意識ができれば、親子の年の差はあっても、同じ状態です。
お互いに、勉強が必要なのです。
見かけや体つきは違っていても、初体験から学んでいく視点から考えれば、親も子と等身大なのです。
子どもが人と仲良くやっていくための手本は、お父さんとお母さんの仲にあります。
子どもが生まれて初めて目にする人間関係は、お父さんとお母さんとの夫婦関係です。
当たり前のことと思うかもしれませんが、この事実にいま一度振り返っていただきたいと思います。
子どもが初めて目にする人間関係がお父さんとお母さんの夫婦関係ですから、2人は手本を見せてあげなければならないのです。
理想的な人間関係を親が見せてあげなくて、子どもはどこから学べばいいのでしょうか。
いちばん身近で異性が仲良く関係を結んでいる姿は、子どもにとってなによりの人間関係の勉強となります。
2人の仲のよさが、子どもの人間関係にも多大な影響を及ぼしていくのです。
もちろん子どもを大切にするのは当然です。
お父さんはお母さんを大切にし、お母さんはお父さんを大切にすることが子どもにとって大切なことなのです。
親は常々、子どもに手本にされている意識を持ってください。
あなたも私も子どものころ、親を見て真似をして育ってきたように、あなたの子どももあなたを見て真似て育っていくのです。
お父さんとお母さんが、子どもに手本の人間関係を見せていくときに1つ気をつけることがあります。
それは、悪口です。
身内だからとはいえ軽々しく身内の悪口を言ってはいけません。
特に、親が親の悪口を言ってはいけません。
「お父さんはだらしないわね」
「お父さんみたいな人になってはいけません」
また一方では、こうあります。
「お母さんは、頭が悪いからね」
「お母さんみたいな人にならないように」
このように、親が親を傷つける悪口は、絶対に言ってはいけません。
こうした言葉を子どもは聞き逃しません。
親が言っているだけあって、何も知らない子どもは本当にそう信じ込んでしまいます。
子どもにとって誰より頼って信じている親の言葉ほど、重く受け止める言葉はありません。
「そうか、お母さんは頭が悪いんだ」
「お父さんみたいな人になってはいけないんだ」
このように思い込んでしまいます。
手本となるべき親を手本にしなくなったときに、子どもはぐれ始めます。
何しろいちばん大切であり基本的な手本が崩壊してしまっては、子どもは見習うべき存在を失い、行動がおかしくなるのです。
ぐれている子どもを見たら、親の責任だと思ってください。
子どもたちがぐれるのは、手本となるべき人がだらしなく、また家庭での夫婦関係が悪いためにぐれてしまうのです。
手本が崩れたときに、子どもも崩れます。
子どもがしっかり成長していくためにも、親がしっかりした人間であり、また理想的な夫婦関係を築いている必要があるのです。
私が親を見ながら育ち、今とても感謝していることの1つに、感謝をする習慣を身につけさせてくれたことです。
私の親はちょっとしたささいなことでも「ありがとう」と感謝する習慣があります。
手本である親がそうしていたから、私もそうするのが当たり前だという意識の元で育ちました。
最初は恥ずかしさを感じるかもしれませんが、慣れれば当たり前になります。
感謝しないほうが、違和感を抱くことでしょう。
子どもに命令をするだけの親がいます。
命令だけでは、子どもは素直に従ってくれないでしょう。
「~しなさい」という時点で強制になり、本人の気持ちとは関係なく、やらざるを得ないからやっている状態なのです。
子どもに強制させることで習慣付いたようでも、子どもにしてみれば「親に叱られるからやる」といった理由でしかないのです。
いずれ親の見ていないところでは、そうした強制的な習慣はいとも簡単に崩壊します。
本当に子どもに習慣付いてもらおうと思うなら、なにより手本である親がそうすればいいだけです。
私が親に感謝しているのは、強制的に「~しろ」という命令で育てたことではありません。
親が感謝を習慣としていたから、私もそれにならったことです。
親が当たり前に行っていることは、私もすることが当たり前となり、自然な習慣となっていったのです。
「ありがとう」が言えない人は、社会に出てから苦労します。
いえ、社会どころか、人生に苦労することになります。
子どもができるだけ早くに身につけるべき習慣は、お世話になれば「ありがとう」と感謝する習慣です。
ありがとうと感謝する習慣が身についてさえいれば、人との関係の潤滑油になり、いざこざも減ります。
「ありがとう」の習慣がない人は、人間関係もうまくいかず、助けてくれる人が少なくなり、人生において苦労することになります。
想像するだけでも容易に理解できます。
「ありがとう」と決して口にしない人と、誰が仲良くなれるでしょうか。
いくら親切にしても感謝をせず、お世話をしても喜んでくれない人とは、もうそれ以上関係を続けたくなくなります。
「ありがとう」という言葉は、心をつなぐ一言です。
この感謝の一言を言える習慣が身についているかどうかで、人生は極端に変わってくるのです。
子どもには「ありがとう」という習慣をいちばんに身につけてもらいましょう。
またそのためには、親であるあなたが日頃から「ありがとうございます」という言葉が口癖であることです。
「ありがとう」だけは言いすぎて困ることはありません。
この文章を読んでいるあなたが「それは当たり前のことだ」と思っていれば、合格です。
感謝の大切さを忘れがちになっていた人がいれば、いま一度自分を振り返り、今からでも習慣付けていきましょう。
人間には3大欲があります。
「食欲」「睡眠欲」「性欲」の3つです。
これは人間が「生存」をするために必要不可欠な大切な欲求です。
そのためにその3大欲の最中に邪魔をされると、不快に感じます。
寝ている途中で叩き起こされたり、エッチの最中で誰かが突然部屋に入ってきたりすると、本当に精神的にまいってしまいます。
生存に関わる欲求を邪魔されることは、なにより不快と感じてしまうものなのです。
食事中も、また同じです。
食事の最中に邪魔をされて気分が悪く感じてしまうのは、大人だけに限ったことではなく、子どもも同じことなのです。
特に、食事中のお説教は禁句です。
ただでさえ食事の邪魔をされてつらいというのに、お説教までされては、どんなにおいしい食事でも味気なくなります。
たった1つのお説教が、世界一おいしい食事も、世界一まずい食事へと変えてしまうスパイスになってしまうのです。
家族での食事の際は、一家がそろう瞬間です。
しかし、一家がそろう状況を利用して、お説教を持ち出す親がいます。
いくら一家がそろう食事のときでも、お説教はしてはいけないことなのです。
せっかく家族全員がそろう時間を、雰囲気の悪い時間へと変えます。
子どもが親と食事をしないと不満を漏らす親に限って、食事のときは決まってお説教をしています。
食事のときにお説教をされるくらいなら、1人になって部屋で食事したほうがましだと感じてしまうのです。
「そんな子どもは親不孝だ」という声が飛んできそうですが、これは道徳とか教育とかそういう問題以前の話なのです。
先ほどもいいましたが、これは本能なのです。
もともと人が生存するために、必要な欲求を満たすために、特に子どもは本能的にそうしてしまうのです。
食事中のお説教のみならず、不快にさせる話は、すべて良くありません。
楽しい話や嬉しい話のみ、食事中は許されます。
人との世間話の最中、よそのお子さんの失敗や悲しい出来事など耳にするときがあります。
そんなときについ反射的に「うちの子に限ってそんなことはない」と思います。
他人のつらい出来事や失敗などはあくまでも他人の話であって、自分の子にそんなことはあり得ないと思ってしまうのです。
「うちの子に限って」と人ごとのように考えてしまうのは、もったいないことです。
ほかの家庭で実際に起きたことは、自分の家庭にも当てはめる必要があります。
他人の失敗談を聞くことができたというのに、それを生かさないということは学ぶことを拒否しているということになるのです。
人の失敗談は、自分の子どもにももしかしたら当てはまるかもしれないということです。
引きこもりやいじめなど「うちの子に限って」と考えるのは、心配することをやめてしまうのと同じことなのです。
子育ての理想は、親のみに育てられることではありません。
近所のかたにも親のように怒ってもらえるほうが、子どものためになります。
つまりコミュニティー全体が1つの教育機関として機能するほうが、子どもは健全に育っていきます。
「よその親に口出しされたくない」という親なら失格です。
「お互いに助け合う」というのが、人生では基本的な幸せの哲学です。
これは子育てにも当てはまります。
悪いことをしたときには、近所の大人にもどんどん叱ってもらうほうが、子どもにとって勉強になります。
親の目の行き届かないところまで、しっかり教育を行き渡らせる効果的な育て方です。
私の実家は田舎です。
そんな田舎では人が少ないせいもあって、近所の人で知らない人はいませんでした。
顔を見るだけで「○○さんの孫」という呼び名で、呼ばれていたものです。
私がまだ小学校のころのことです。
近所においしそうな柿の木があり、友人と一緒になって取っていたら家の人に見つかり「こら!」と叱られたことがありました。
周囲にはあまり人もいないので、私の顔を見ただけで「○○さん家の孫」とわかります。
私の名前ではなく「○○さん家の孫」という呼ばれ方しかされないのが、田舎の証拠です。
私の親にも連絡されたため、同じ過ちで、2回も叱られることになりました。
そのときに私は、外で悪さをするとさらに叱られることを学びます。
漫画のような出来事ですが、実際に田舎ではそうしたことが本当にあります。
親だけではなく、目の届かない外に出たときによその親が叱ってくれると、広い範囲まで教育を行き渡らせることができます。
よその家の人に叱られることは、子どもにはつらいことですが、地域が1つになって教育に取り組んでいるということなのです。
子育てで気をつけたいのは、子どもを否定する言葉です。
子育てにいらいらしても、子どもの人格や存在を否定する言葉には気をつけましょう。
たとえば、次のような言葉は禁句です。
「あなたは何をやってもダメ」
「あなたにできるわけがない」
「あなたなんて、生むんじゃなかった」
絶対に口にしてはいけない言葉です。
子どもの心を傷つけるのは、教育ではなく、虐待です。
子どもには、一生の心の傷になるでしょう。
言いたくても、ぐっとこらえることです。
親がきちんと我慢すれば、子どもにもつらさが伝わります。
口にしたい言葉は、否定より肯定です。
親は、子どもの人格や存在を肯定する言葉を口にしましょう。
「頑張れば、きっとできるよ」
「いい子だね。将来が楽しみだよ」
「あなたを産んで良かったよ」
子どもを肯定するのが、親の仕事です。
子どものいいところを見つけて、どんどん褒めてあげましょう。
褒めて、褒めて、褒めるのです。
褒めて育てるのは、いい親です。
子どもは親の期待に応えようと、子どもはすくすく成長するでしょう。
子どもの短所を褒めることは、親の仕事です。
完璧な子どもなどいませんから、必ず欠点はあります。
欠点は褒めるべきではないことと思うでしょうが、本当に子を愛する親なら子どもの欠点さえも愛せます。
自分が産んだ子どもなら、すべてが愛らしく見えてきます。
子どもには自分の欠点をなにより気にしますが、親が褒めていれば子どもは自然と気にならなくなります。
子どもはこんな欠点さえなければというようなことでも、他人から見れば大したことではありません。
私は昔、自分のくせ毛に極端にコンプレックスを持っていました。
実は、強いくせ毛なのです。
縮毛です。
小さなころから毛が縮れて、昔からストレートのまっすぐな髪の毛に強い憧れを持っていました。
思春期は、ストレートパーマをかけたり、ドライヤーでなんとかしようしたりと、たいていのことはやってきました。
しかし、一時的になんとかなっても、いずれ伸びてくる髪は、くせ毛です。
私がいろいろとやっているのは、親から見ても一目でわかったはずです。
髪のことで悩んでいる私に、親はこう言います。
「別にいいじゃないか」
当時は「親に自分の気持ちはわからない」と聞き流していましたが、言われ続けていると、だんだん気にならなくなります。
若いとき(特に思春期)は、見かけを重視して人を判断してしまいがちですから、外見を気にしてしまいます。
しかし、実際に気にしているのは自分だけで、親の言うとおり、周りの人は大したことではないと感じているのです。
それに気づかせてあげることです。
コンプレックスは、修正させるより、そのものを受け入れさせるよう教えてあげましょう。
コンプレックスも、その人の一部なのです。
それこそ愛着を持つべき点なのです。
愛とは、無条件に大切にすることを言います。
決して見返りを求めるのではなく、無条件に大切にすることが愛なのです。
これはまた子育てにも言えることです。
子どもが自分にメリットがあるから育てるということは、愛ではありません。
テイクを要求した育て方では、愛は成り立たなくなります。
愛は「ギブ&ギブ」と言って、見返りを求めないときに初めて成り立つことなのです。
あなたが自分の親から「あのとき、育ててあげたでしょ。恩返しして」と言われたらどう感じることでしょう。
「自分を育てたことは、見返りを求めていたからなんだ」と感じてしまい、悲しくなります。
大切だから育てたのではなく、将来の見返りを期待して育てていたことがわかったら、愛が愛ではなくなってしまうのです。
いくら初めが無条件でも、途中から条件が付いてしまったら、今までの愛も水の泡です。
愛とはなんとはかないのでしょうか。
育むことには時間がかかっても、壊れてしまうのはちょっとした間違いからです。
私が子育てに関して、わざわざ「愛」について話をしているのは、この大切さに気づいてほしいからです。
上手な子どもの育て方は、無条件に大切にすることです。
成績がいいから子どもを好きになるのではありません。
かっこいいから、かわいいからとはいえ、好きになることでもありません。
自分の子どもだから、大切にするのです。
自分の子どもに対して、将来の恩返しを期待して育てることは、その時点で愛のない子育てになっていることに気づきましょう。
またこの考え方は、親のない子どもにも当てはめることができます。
親のない子どもでも、周囲が無条件に子を愛していくことができれば、子どもは健全に育っていきます。
愛とは「無条件に大切にすること」です。
子育ての最終的な目的があります。
子どもが1人でも生きていけるようにすることです。
いずれ親は、死を迎える日がやってきます。
寿命かもしれませんし、交通事故かもしれません。
必ずいつか、子は親と別れるときがやってきます。
子育てとは、甘えさせることでも過保護にさせることでも、ありません。
自分一人でも生きていけるように育てていくことが、子育てです。
そのために必要な知識や知恵を学校や家庭、人間関係から学びます。
こうしたことは、すべての人に当てはまります。
親は、いつか自分の手から子どもが離れていくことを、心のどこかで準備する必要があります。
健全に子育てができているほど、子どもは強くなります。
本当に親がいなくなっても生きていけるほどの知識、知恵、精神的な強さを身につけることができます。
いわば、卒業式です。
子が親から離れていくことは喜ばしいことであり、まさに子育てに成功したということなのです。
子どものためを思って、何でも、代わりに親がやっている家庭を見かけます。
親が子どものために、いろいろとしてあげることは甘やかしているだけであって、実は子どもの将来のためにはなっていません。
本当に子どものためを思うなら、子ども本人にどんどんやらせていき、親の力がなくてもやっていけるようにすることです。
子どもには厳しい道のりでしょう。
しかし、親にとっての子どもへの思いやりであり、優しさでもあるのです。
悲しいですが、親の努めです。
厳しさは、優しさです。
子育てとは、厳しさと優しさが表裏一体なのです。