「嫌いなことがあります。どうすればいいですか」
こう聞かれれば、私は次のように即答します。
「じゃあ、しなければいいですよ」
「プラス思考になりましょう」
「良いところだけを見ましょう」
「もっと愛と感謝の気持ちを持って、人と接しましょう」
嫌いな分野には、広がりがあります。
Aさんを嫌いになると、Aさんと仲のいいBさんも嫌いになり、Bさんと仲のいいCさんも嫌いになってしまう経験はありませんか。
嫌いが連鎖していき、広がってしまいます。
無理に、嫌いなことをする必要はありません。
プラス思考を勉強する必要もありません。
では、どうすれば、嫌いなことを好きに変えることができるのでしょうか。
「困難を乗り越える」ということには、つらくて大変なイメージがあるものです。
人一倍頑張って、努力をする必要があります。
根性、辛抱、集中力、根気、勇気など、さまざまなイメージがあります。
不思議なことに、好きなことをやっていると、つらいことが次第になくなります。
つらいことそのものが、本当に消えてなくなっているわけではありません。
自分の心が変わってきているのです。
交通事故に遭ったとき「何て不運なのだ」と思うのは、成長から逃げている人です。
事故を不運だと決めているのは、あなたの心の問題です。
本当に成長を求めている人は「自分の不注意が原因だった。今度からは気をつけよう」と自分を振り返り、事故を成長に変えます。
ゲームマニアの人には、すごい行動力があります。
好きなゲームの新作なら、雑誌で調べたり、発売当日に朝早くから並んで待ったりできます。
豊富なゲームの知識を持ち、ゲームの話なら、何時間もしゃべり続けてしまいます。
コンプレックスを持っていると「何て自分は不幸なのだ」と思います。
それはコンプレックスを悪いことだと思っているからです。
しかし、ちょっと待ってください。
「年を取れば、涙もろくなる」
こんな話を聞いたことがありませんか。
単なる言い伝えかと思われるかもしれませんが、実は科学的な根拠があります。
好きという気持ちを突き詰めれば、嫌いなことも好きになれるというお話をしました。
たしかにそれはそうなのですが、本当の真実は、もっとその奥にあります。
話をひっくり返してしまうようで申し訳ないのですが、本当の真実は「好き」ではないのです。
なぜオリンピックがあるのか、ご存じですか。
「世界一を競うため」
そう答える人がほとんどでしょう。
男と女は別々の存在に思えますが、実は2人で1つです。
「男と女は生物的な違いがあるではないか」
それはそうなのですが、では片方だけで人類は生き続けることはできるでしょうか。
好きと嫌いの世界は、その間に境界線があります。
世界には、たくさんの境界線が引かれています。
職場、学校には、クラスという境界線。
ジグソーパズルは、初めは1枚の絵です。
完全であり、完璧な絵が初めから出来上がっています。
しかし、あとから人間がその絵に線を引っ張って、小さく分けてしまいます。
どうすれば、境界線などないということに気づくことができるのでしょうか。
捨ててみればいいのです。
捨ててしまったとき、あると思っていた境界線が「あっ! ない!」ということに気づきます。
私の部屋には今、テレビがありません。
冷蔵庫も電子レンジもありません。
ベッドがなくて、布団暮らしです。
好きなことがあるということは、嫌いなことがあるということです。
嫌いなことがあるということは、好きなことがあるということです。
どちらに転んでも、苦しみがあります。
好きなことを突き詰めていけば、嫌いなことが好きに変わります。
興味のある分野が増え、嫌いなことも包み込んでしまうようになるからです。
嫌いを好きに変える方法で、好きに変えたとします。
「これは良いことだ」
「これは悪いことだ」
世の中には、法によってたくさんの善悪が決められています。
この世にはすべては1つであり、つながりがあります。
自分が強くなれば、誰かが強くなるということです。
あなたが幸せになれば、あなたの友人にも影響を与えます。
円周率をご存じですか。
円周を直径で割って求める値のことを言います。
ちなみに私が小学生のころは「3.14」として覚えました。
真実に気づくとは、汚れたメガネをきれいに磨くということです。
汚れたメガネをかけて現実を見れば、どれも汚れた世界に見えます。
実際に世の中は汚れてはいないけれど、汚れたメガネをかけているため、すべてが汚れて見えるのです。
難しいことは、受け止め方を変えると、成長のきっかけであることに気づきます。
難しいことがあるから悩み、考えるきっかけになります。
好きな人から「あなたのことが嫌いになった」と言われれば「私のどこがいけないの」と聞きますよね。
家族のことが嫌いと言っている人は「自分も嫌いだ」と言っていることになります。
「自分のことが好き」ときれい事を言っている人でも、家族をけなしたりする人は、同時に自分もけなしていることになるのです。
自分を生んで、育ててくれたのは父親であり、母親だからです。
「私は、ダメな人間なんです」
ときどき、自分で自分の悪口を言う人を見かけます。
自分を謙虚に見せていることでしょうが、実は横柄で偉そうなことを言っています。
人間には、苦しみから逃れようとする本能があります。
生存するために、苦しみから逃れることとなると、本気になります。
さまざまな知識、知恵、協力を結集して、命を懸けて解決しようとします。
すべての人には、必ず才能が与えられています。
「またまたそんな大げさなことを」
いいえ、大げさではありません。
「あれ、嫌いなことって本当にマイナスだろうか」
「マイナスは、プラスではないだろうか」
私はある日、ふと、現実を疑いました。
逆説的な話で、意外な事実を1つお話しします。
今まで学んできたことを、大きく変えるような事実です。
何を大きく変えるかというと、次の一言です。
「嫌いなことがあります。どうすればいいですか」
こう聞かれれば、私は次のように即答します。
「じゃあ、しなければいいですよ」
ほとんどの人が「もっと真面目に答えてください」と言うでしょう。
真面目に答えているのです。
嫌いなことをしていると、大好きになってしまったということはありません。
幸せになれた、ハッピーになれたこともありません。
嫌いなことは、無理にすればするほど、もっと嫌いになってしまう法則があります。
いくらやっても好きになれない、報われない、うまくいかない現実に、嫌いなことがもっと嫌いになります。
「やはり私はダメなんだ」
いいえ、あなたがダメなのではありません。
そもそも最初から反発する力が働いているだけです。
磁石のN極同士を近づけるとどうなりますか。
反発する力が働くのみですね。
近づけるほど、その反発する力は大きくなる一方。
無理をして近づけ続けていると、そのうち磁石の気が変わって、くっつくようになると思いますか。
いいえ、100年経っても、磁石のN極同士は反発したままでしょう。
反発は反発なのです。
反発する力があるにもかかわらず、無理をして近づけても、必要のない努力や時間が発生するだけです。
反発は自然に反している現象です。
いわゆる「不自然」というものです。
それは磁石が悪いわけではありません。
最初から働いている自然の力を、無理やり不自然な方向へ曲げようとしているから、反発という力が発生しているだけです。
あなたは、嫌いなことをするという「不自然なこと」をしているから、気持ちが暗くなるのです。
元気になれないのです。
嫌いなことを避けていると、現実から逃げているような気になります。
先生に叱られ、親に叱られます。
でも、本当は、嫌いなことばかりしている現実こそ、現実逃避になるのです。
不自然なことばかりをしていると、自然になれたという不自然なことはありません。
むしろ、嫌いなことはしてはいけないのです。
嫌いは嫌いのままが、いちばん自然なのです。
「してはいけない」という神からの啓示です。
自然が、あなたに幸せへの道しるべを与えているのです。
「プラス思考になりましょう」
「良いところだけを見ましょう」
「もっと愛と感謝の気持ちを持って、人と接しましょう」
世間では、こうした前向きな考え方があふれています。
本屋に行けば、何十万冊という本があなたに、プラス思考というものを教えてくれます。
おや。
不思議なことに気づきませんか。
これだけ世の中にプラス思考の本があふれていれば、世のすべての人間は、とっくにプラス思考になっているはずです。
世の中に悩みなど、ないはずです。
愛と希望に満ちあふれ、幸せな人生を送っていることでしょう。
世界は平和になり、戦争などないはず。
しかし、現実は、そうではありませんね。
むしろプラスになっていない人のほうが多いのです。
おかしいですね。
プラス思考になろうと思っても、なかなかそうできない現実があるからです。
頭でプラスとわかっていても、本当に心の底からそう思っているわけではありません。
嫌いな気持ちを押し殺し、無理をしているだけです。
プラス思考を心がけ、無理をして嫌いなことをしているから、なかなかハッピーになれないのです。
「プラス思考になろう」と思うのは、つまり「プラス思考ではない」ということです。
プラス思考ではないから、無理をしてプラスの考え方に持っていこうとします。
無理をしてプラス思考になったところで、本当の気持ちはそうではありません。
プラス思考になろうと思う人ほど、プラスに思っていないということです。
自分に嘘をつき、嫌いという反発力を無視して近づいているわけです。
「嫌いだ!」
「やりたくない!」
「したくない!」
こういう気持ちが、正直な気持ちです。
うまくいかなかったときには「やっぱりうまくいかないじゃないか」と納得して「自分は人として失格だ」と落ち込んでしまいます。
プラス思考になろうとしたばかりに、余計にマイナス思考になってしまうという悪循環です。
これが、プラス思考の副作用です。
心の底から「プラス」だと思っていない本当の気持ちがあるため、うまくいかなかったときにさらに落ち込んでしまいます。
プラス思考を学習するのは、自分の気持ちに嘘をついて、嫌いなことを無理やり行うことをいいます。
それは本当のプラス思考ではありません。
プラスとして思えない現実に気づくことを、本当のプラス思考というのです。
嫌いな分野には、広がりがあります。
Aさんを嫌いになると、Aさんと仲のいいBさんも嫌いになり、Bさんと仲のいいCさんも嫌いになってしまう経験はありませんか。
嫌いが連鎖していき、広がってしまいます。
初めは好きだった人まで、嫌いになってしまうことさえあります。
嫌いには、波及効果があるのです。
嫌いなことをしてはいけません。
嫌いな分野が、もっと増えます。
やがて、すべてが嫌いになり、行動できなくなります。
こうならないためにも、嫌いなことはしてはいけないのです。
嫌いなことから逃げていると「人生から逃げている」「弱虫」など言われ、批判されます。
でも、本当は嫌いなことに立ち向かっていることこそ、現実逃避なのです。
無理に、嫌いなことをする必要はありません。
プラス思考を勉強する必要もありません。
では、どうすれば、嫌いなことを好きに変えることができるのでしょうか。
プラス思考になる本当の方法とは何でしょうか。
さあ、きましたね。
ここまでわかると、答えはもう目の前です。
前項では、嫌いなことをしていると、やがて嫌いな分野がさらに広がってしまうというお話をしました。
実は、その逆もあるのです。
好きなことにも「波及効果」があります。
好きなことをしていると、好きな分野が広がっていくという現象です。
好きなことを突き詰めていくと、その気持ちが波及して、興味のある分野が広がっていくということです。
算数が好きだった人が突き詰めた結果、数学が好きになり、数学を突き詰めた結果、物理にも興味が湧いてくるということです。
Aさんのことが好きだと、Aさんの友人まで「いい人」に見えてきます。
好きなことを徹底的に突き詰めるのです。
好きなことを奥深く掘り下げていきます。
すると不思議なことに「嫌いなことも好きになってしまう」という現象を目の当たりにするはずです。
好きな分野には「広がり」があるのです。
好きなことを突き詰めていくと、自分の好きな分野がどんどんと広がり、やがて嫌いだったことも飲み込んでしまうようになります。
私は以前、経済の勉強にはまったく興味がありませんでした。
いえ、むしろ嫌いでした。
政治経済の話にはアレルギーが出るほどでした。
一方、人生に関する本はそもそも好きで、昔からたくさん読んでいました。
人生では、常に人がつきものです。
次に私は心理学にも興味が出てきて、人の心の勉強もはじめるようになりました。
好きな心理学の勉強ばかりしていると、人付き合いに対しても興味が湧いてきます。
心理学の勉強をしていると、人の心の動きがわかるようになります。
世界を動かしているのは人の心の表れだということに気づいた私は、次に経済学にも興味が出てきました。
人の心が経済にどのような影響を及ぼしているのかということに、興味が湧いてきたのです。
今では、経済の勉強が好きになってしまいました。
好きな分野を追求していると、その幅が広がってしまい、以前嫌いだったことまで、楽しんで勉強している現実があります。
以前の私は、経済の勉強が、鳥肌が立つほど苦手でした。
しかし、今は大好きです。
好きなことをして追求していると、好きの分野が広がり、自然と人間関係や経済を楽しんで勉強できるようになってしまったのです。
嫌いが好きになってしまったということです。
嫌いを好きに変えるコツは「好きなことを徹底的に追求すること」です。
好きなことばかりをしていると興味の幅が広がり、いずれ嫌いだったことも飲み込んで好きになってしまうのです。
もう嫌いなことはしなくていいのです。
好きなことばかりをしていていい。
好きなことばかりの人生になり、さらには嫌いなことまで、いつの間にか好きになっているのです。
私はこれに気づいたとき「なんだ! これだけのことなのか!」と声を出してしまいました。
難しく考える必要はなかったのです。
好きなことをしていれば自然と人生は好転していく、単純な仕組みだったのです。
「困難を乗り越える」ということには、つらくて大変なイメージがあるものです。
人一倍頑張って、努力をする必要があります。
根性、辛抱、集中力、根気、勇気など、さまざまなイメージがあります。
オリンピックのスポーツ選手たちは、みなこうしたことを乗り越えて、練習をしてきた人たちばかりです。
いつも苦しんで、眉間にしわを寄せて練習をしているというイメージがありますが、実際はそうではありません。
実際に本人たちが思っていることといえば「楽しい」しかないのです。
好きなことを楽しんできた結果、実力も伴ったということです。
もちろん困難を乗り越える場面もあったことでしょう。
しかし、好きなことをしている人には、困難さえも楽しく感じてしまうのです。
「好き」という自然の力にありのまま従った結果、湧き出た自然なるパワーです。
好きなことをすると、頑張り、集中力、根気、根性、努力、勇気という言葉とは無縁です。
あることは、楽しむことだけです。
楽しんでいるだけで自然と、根性も集中も根気も勇気も出てきます。
頑張る必要などないのです。
好きなことをしていれば、自然とそれらができてしまいます。
できないのは、好きだという気持ちが足りないからです。
困難にぶつかって「もうダメだ。やめた」と諦めるのは、本当に好きではない証拠です。
本当に好きなら「なんとかするぞ」という気持ちになってしまうはずだからです。
無理をして、そう思うのではなく、好きだから楽しんでそう思います。
恋愛でも、同じです。
片思いで大好きな人がいたときには、その人のことで頭がいっぱいになりますよね。
いつもその人のことばかり考えてしまい、集中してしまいますが、頑張ってそうしているわけではないはずです。
自然と、考えてしまうはずです。
好きな人のことは、頑張らなくても集中して真剣に考えます。
努力も頑張りも不要です。
本当に好きなら、なんとか振り向かせようとする努力も、自然とできてしまいます。
不思議なことに、好きなことをやっていると、つらいことが次第になくなります。
つらいことそのものが、本当に消えてなくなっているわけではありません。
自分の心が変わってきているのです。
プラス思考になってきているからです。
好きなことなら、つらいことも、楽しく感じます。
ゲーム感覚といっても良いでしょう。
「これができればレベルが上がる」
「もっと深く追求したい」
「もう少し奥を深めたい」
「むしろ、もっと大変なことはないのか」
好きという気持ちを軸に生活していると、あらゆることが成長として感じます。
世の中にある「苦しいこと」も「つらいこと」も、決めているのは、あなたの心です。
受け止め方の問題です。
あなたが成長として受け止めれば、苦しいことを前向きに受け止められるようになります。
好きだという気持ちがあれば、苦しいことも楽しいと感じてしまうようになるのです。
「プラス思考になりましょう」は、本当はそうではないということです。
無理やり自分を変えようとしているということです。
本当はプラス思考になる必要はないのです。
好きなことをしていれば、それだけで自然とプラス思考になってしまうのです。
好きなことをしていれば、プラス思考になろうとする努力から開放されます。
プラスにしか考えようがなくなるからです。
交通事故に遭ったとき「何て不運なのだ」と思うのは、成長から逃げている人です。
事故を不運だと決めているのは、あなたの心の問題です。
本当に成長を求めている人は「自分の不注意が原因だった。今度からは気をつけよう」と自分を振り返り、事故を成長に変えます。
本当に「自分は幸せになりたい」と願う人は、無理をしてプラス思考を考えてはいません。
そう考えるしかないのです。
それ以外、考えようがないのです。
不運なことやつらいことほど、自分を高められるチャンスはないからです。
むしろ自分の不運さに「やった! これで成長できる」と喜んでしまうほどです。
本当に成長したいと思っている人は、不運なことやつらいことがあっても、成長に変えて、受け止め、吸収してしまう力があります。
世の中のすべての出来事は、あなたの心が映し出された結果と考えることができます。
運も不運もありません。
そう決めているのは、あなたの心なのです。
受け止め方の違いだけです。
あなたが成長から逃げていると、世の中の出来事は、すべてがつまらなくなって見えます。
人付き合い、就職、受験戦争、子育て、老後など「面倒だな」「やりたくないなあ」「逃げたいなあ」と、そう自然に思います。
成長から逃げていると、自分の身に降りかかる出来事すべてが困難と感じます。
本当は楽しい恋愛さえも「面倒。なぜ自分はこれほど不幸なのだ」と思ってしまうのです。
恋愛そのものは、問題ではなく、あなたの心が問題なのです。
受け止め方に、問題があるのです。
あなたは今、自分の生活、人生を振り返って「素晴らしい毎日」だと思いますか。
それとも「つまらない毎日」だと思いますか。
素晴らしい毎日も、つまらない毎日もありません。
あなたの心が、そう決めているのです。
現実は心というフィルムから映し出された映像なのです。
ゲームマニアの人には、すごい行動力があります。
好きなゲームの新作なら、雑誌で調べたり、発売当日に朝早くから並んで待ったりできます。
豊富なゲームの知識を持ち、ゲームの話なら、何時間もしゃべり続けてしまいます。
努力が努力と感じなくなり、そうしていつの間にか行動派になってしまうのです。
「行動しよう」と思わないといけないのは、好きではない証拠です。
好きなことをしていれば、自分で雑誌を読んで調べたり、発売日に朝早くに起きて、行列に並んだりできます。
「するな」と言われても、してしまうほどです。
行動しようと思わなくても行動していることが、本当に好きなことです。
行動力は、好きという気持ちの大きさに比例します。
「行動しよう」と思っているうちは、まだ本当に好きではない証拠なのです。
あなたが行動しようと思わなくても、行動してしまうことは何ですか。
コンプレックスを持っていると「何て自分は不幸なのだ」と思います。
それはコンプレックスを悪いことだと思っているからです。
しかし、ちょっと待ってください。
それは早合点です。
コンプレックスがあるおかげで、ほかの人より繊細になっているというプラスの面に注目しましょう。
コンプレックスを持っている人は、繊細で、敏感で、努力家が多いのです。
欠点という穴を埋めようとする努力は、膨大な力を発揮します。
英会話ができなくてコンプレックスを持っている人が、一念発起して勉強を始めるということは、よくある話です。
運動が苦手で侮辱された経験から「せめて勉強で見返してやろう」と、成績を上げる人もいます。
空手を習う人には、もともと体が弱かったという人が多いものです。
角田信明さんも、もとは体が弱く、いじめられていた経験から、武道を始めたといいます。
プラスもマイナスも、受け止め方が問題なのです。
コンプレックスを正直に受け止めて「解消するぞ」というバネの力に変えてしまえば、ほかの人より伸びるチャンスになるのです。
コンプレックスを、努力をするバネに変えてしまいましょう。
ほかの人より努力をするパワーは、コンプレックスから発生しているのです。
「年を取れば、涙もろくなる」
こんな話を聞いたことがありませんか。
単なる言い伝えかと思われるかもしれませんが、実は科学的な根拠があります。
なぜ涙もろくなってしまうのかというと、人生経験が増え、さまざまな人の話や気持ちを理解できるようになるからです。
心の成長ができたということです。
長く生きるほど、楽しい経験だけでなく、つらい経験、努力した経験、悲しい経験、悔しい経験など、総合的に増えます。
その経験の蓄積のおかげで、人の話を聞いたときに感情移入が容易にできるようになり、その結果、涙もろくなってしまうのです。
いえ、感情移入しようと思わなくても、ふと過去を思い出し、感情移入せずにはいられなくなります。
涙もろい人は、年を取って弱ってしまい、泣き虫になったのではありません。
人生経験が豊富になり、人の気持ちや感情を心から理解できるようになったということです。
器の大きい人なのです。
自分の人生と照らし合わせて相手の気持ちを理解でき、感情移入できるようになります。
私も最近は、10代のころと比べて、明らかに涙もろくなりました。
昔は、悲しい話を聞いても「そうですか」で終わってしまいました。
しかし、恋愛、受験、人間関係、勉強、仕事など、さまざまな経験が増えると、人の話に感情を伴って聞けます。
悲しい話を聞いていると、自分の過去の悲しいことを思い出し、一緒に泣いてしまうのです。
好きという気持ちを突き詰めれば、嫌いなことも好きになれるというお話をしました。
たしかにそれはそうなのですが、本当の真実は、もっとその奥にあります。
話をひっくり返してしまうようで申し訳ないのですが、本当の真実は「好き」ではないのです。
好きという話もこれからお話しする内容をより理解してもらうための前菜です。
これからが、メインディッシュです。
好きという心も、嫌いという心も、真実から言ってしまえば、すべて人間がつくり出した幻です。
嘘であり、幻想であり、夢なのです。
本当は、そんなものありません。
好きということもなければ、嫌いなこともありません。
人間が、自分の都合のいいように気持ちを分けているから、好きと嫌いで2つにわかれてしまうのです。
「分ける心」こそ、病気なのです。
「好き」という気持ちも「嫌い」という気持ちも、どちらも病気です。
あなたの心が汚れているという病気なのです。
好きなことがあるということは、嫌いなことがあるということです。
嫌いなことがあるということは、好きなことがあるということです。
日本人は、日本が大好きで、韓国は別の国だと思っています。
韓国人は、韓国が大好きで、日本は別の国だと思っています。
好きな心が発生しているからこそ、境界線が生まれ、対立が生まれます。
「自分のもの」という所有欲の気持ちから、分裂が始まります。
しかし、地球という大きな単位から見れば、同じなのです。
海の下では、きちんとつながっています。
そもそも1つの存在を、人間が境界線を引いて分けてしまったから、対立が生まれ、争いが生まれ、戦争が生まれているのです。
好きでもいけないのです。
嫌いでもいけないのです。
どちらも結果として、分けてしまうことになるからです。
「わかれている」のではなく、人間が「分けた」のです。
そもそも1つであるものを、分けたからバランスが悪くなっています。
「そもそも1つである」という事実に気づくのです。
好きも嫌いも、どちらもバランスが悪い状態です。
1つということに気づいたとき、すべてが仲良くなれます。
地球というレベルから見れば、日本も韓国もアメリカも、フランス、ロシアも同じです。
陸は別々のように見えても、海の下ではきちんとつながっています。
すべてはつながり、1つであるということに気づけば、好きも嫌いもないのです。
2つあるのではない。
1つしかないのです。
1つしかなければ、対立はありません。
相手がいなければ、けんかも戦争もありません。
すべては、調和の世界になるのです。
好きだという気持ちは、分ける心です。
嫌いだという気持ちも、分ける心です。
「実は好きも嫌いも存在しない。初めから1つだった」という事実に気づかなければならないのです。
好きな日本、嫌いな韓国ではないのです。
海の下ではつながり、そもそも1つです。
1つなのですから、好きも嫌いもありません。
対立もけんかもすべては、狭い視野から見ているからそうなるのです。
好きも嫌いも、幻想であり、幻であり、夢なのです。
「1つ」という事実に目覚めれば、もう分ける心はなくなり、けんかも戦争もなくなります。
1つなのですから、対立のしようがないからです。
あなたが好きというレベルにいるなら、さらにその奥の真実に気づきましょう。
なぜオリンピックがあるのか、ご存じですか。
「世界一を競うため」
そう答える人がほとんどでしょう。
しかし、それではまだ50点の回答です。
オリンピックの本当の目的は、実はもっと奥深いところにあります。
「私たちは、1つであることに気づくため」にあるのです。
「肌の色、言葉の違いはあっても、私たちは1つなのですよ」ということを、スポーツを通して気づいてほしいから、あるのです。
オリンピックの競技が始まれば、国の違いはあっても、もはや関係なくなります。
レスリングは、自分と相手で別々の存在に思えても、相手がいるからこそレスリングができるのだという事実に気づきます。
相手がいてこそ、レスリングは可能です。
人間1人では、レスリングは成り立ちません。
つまり、自分と相手は1つなのです。
スポーツを通して、体感してほしいためです。
オリンピックは、私たちは1つであるという真実に気づくためにあります。
単なるスポーツの競技会としか見えていない人は、視野が狭い。
サッカーというスポーツも、できるのは、私たちと相手と応援する人々がいるからです。
どれが欠けていてもいけません。
すべてで1つなのです。
私たちと、相手と、応援する人々がいて、初めてサッカーが可能です。
サッカーが最高潮に盛り上がる瞬間に、よくこんな言葉を耳にします。
「みなの心が1つになった瞬間、すべてが1つになる」
心が1つにならなくても、本当は最初から1つなのです。
ばらばらに分けてしまったのは、人間が勝手にそうしたからです。
土地に境界線を引いて、国がわかれ、文化がわかれ、言葉を分けてしまったから、別々であるように見えています。
しかし、宇宙から地球を見れば、1つなのです。
1つになるのではなく、最初から、そもそも1つなのです。
別々というのは幻で、最初から1つだったのだということに気づくために、スポーツがあり、オリンピックが開催されています。
私たちが熱く汗を流し、感動の涙が流れるのは、1つだと気づいた瞬間です。
世界一は、どこでもいいのです。
個と全体の一体化が実現できれば、それでいい。
「私たちはすべてで1つです」ということに気づくきっかけになることができれば、それでオリンピックは大成功なのです。
嫌いを好きに変えるコツは「実は1つだった」という真実に気づくことです。
調和であり、愛があることに目覚めます。
好きも嫌いも、私たちは幻を見ていたのです。
真実から見る癖をつけましょう。
あなたが見ている現実は、いまだ夢の中なのです。
視野が狭くて意識が低いと、夢や幻を見てしまい、ありもしないことに振り回されます。
幻想に振り回されているから、つまらないけんかをしてしまうことになるのです。
好きも嫌いも本当はなくて、幻想です。
私たちは、ありもしないことに苦労をしていたのです。
男と女は別々の存在に思えますが、実は2人で1つです。
「男と女は生物的な違いがあるではないか」
それはそうなのですが、では片方だけで人類は生き続けることはできるでしょうか。
男だけの社会、女だけの社会では、どう子孫を残すことができるでしょうか。
もちろんできませんね。
男は女が必要であり、女は男が必要です。
異性が1つになったとき、子どもが生まれ、人類は存続されます。
1つにならないといけない。
1つになったときに、その役目が果たされます。
片方だけでは、人間としての役目も半分しか果たしていません。
ジグソーパズルのように、1つになり、初めて絵が出来上がります。
どのピースに良い悪いもありません。
ばらばらに見えても、そもそも1つ。
お互いが必要です。
2つに見えても、実は1つ。
2つに見えるというのは幻想です。
幻であり、夢なのです。
好きと嫌いの世界は、その間に境界線があります。
世界には、たくさんの境界線が引かれています。
職場、学校には、クラスという境界線。
年齢という境界線。
性別という境界線。
土地という境界線。
国境という境界線。
善悪という境界線。
世の中は、たくさんの境界線によって「区別」をつくってしまったがために「対立」も生まれてしまうようになりました。
対立を生み出した原因は、実は人間そのものなのです。
世のいざこざのすべては、境界線を引いてしまった産物です。
境界線のせいで、対立が生まれ、けんかが発生しています。
しかし、そもそも1つであるということに気づかなければなりません。
地球には国境という境界線が引かれていますが、地球から見れば、そもそも1つなのです。
線なんて、どこにあるのでしょうか。
善悪という区別は、人間が作った境界線です。
良い悪いという区別も、初めからあったのではなく、人間が作った境界線です。
あなたがあるように見えている境界線は、あるように見えて、実はないのです。
幻想、幻、夢なのです。
あなたは現実を生きているように思っているでしょうが、実はいまだ夢の中で生きているのです。
「境界線は実はなかったのだ」という真実に気づいたとき、初めて夢から覚めて、本当の現実が見えるようになります。
ジグソーパズルは、初めは1枚の絵です。
完全であり、完璧な絵が初めから出来上がっています。
しかし、あとから人間がその絵に線を引っ張って、小さく分けてしまいます。
1枚の絵がばらばらになってしまったのです。
地球と同じではありませんか。
地球はそもそも1つなのに、あとから境界線を引っ張ってしまい、ばらばらにしてしまいました。
なぜこれほど世の中にたくさんの境界線が引っ張られることになったのかというと、人間が原因です。
「これは私のものだ」という所有欲のために、たくさん線が引っ張られるようになったのです。
私のもの、私の部屋、私の土地、私の町、私の国。
地球のばらばら事件の原因は、人間の所有欲が原因です。
いざこざ、けんか、対立、戦争の大本の原因は、人であり、所有欲なのです。
地球が生まれたばかりの創世記では、土地の権利などありませんでした。
どこが誰の土地で、ここは誰の土地かという区別はなく、地球1つをみんなで共有していました。
しかし、人が進化すると、次第に欲も強くなります。
所有欲のために、あとから土地に線が引っ張られるようになりました。
今では、アパートにたくさんの壁という境界をつくり「ここからここまでは私のもの」という「自分の空間」をつくっています。
そういう自分の部屋という空間は、どれも制限的です。
区切って小さな単位にしているのですから、どれも狭く制限があります。
そもそも「私の家」というのは、所有欲から発生する境界線をつくる作業なのです。
最初から私の家があるのではありません。
もともと土地はあり、人間たちが所有欲から奪い合いが生まれ、境界線が生まれたのです。
どうすれば、境界線などないということに気づくことができるのでしょうか。
捨ててみればいいのです。
捨ててしまったとき、あると思っていた境界線が「あっ! ない!」ということに気づきます。
所有をやめて、捨ててしまえば、自分も他人もないことに気づきます。
境界線は、幻だったことに気づきます。
思い出の写真を持っていると、過去はあるように見えます。
しかし、写真を捨ててしまえば、実は過去はなかったのだということがわかります。
頭の中にある「記憶」が、過去の正体です。
物質として写真があるから、過去があるように見えただけ。
所有は豊かさだという夢から目が覚め、持たなくても持っていることに気づきます。
手放したとき、あなたは大きな豊かさを手に入れられることでしょう。
手放したもの以上に、豊かなものが手に入ります。
所有欲を手放したとき、本当の豊かさが手に入ります。
人の対立や悩みのほとんどは、所有するから生まれます。
時間の節約、お金の節約、悩みからの開放、対立がなくなりけんかもなくなる。
所有していると、貴重な人生をひどく消費してしまいます。
たとえば、空気清浄機を例に挙げましょう。
きれいな空気を手に入れたいため、空気清浄機を手に入れます。
空気清浄機があれば、たしかにきれいな空気が手に入ります。
生活には問題ないように思えます。
しかし、電気代によりお金がかかりますし、掃除にも手間がかかり、置く場所にもスペースをとられます。
泥棒に盗まれて、悔しい思いをすることもあるでしょう。
世話がかかり、大変です。
窓を開ければ、それだけで十分にきれいな空気が手に入ります。
清浄機を持っているからきれいな空気が手に入るわけではなく、そもそも最初からあります。
窓を開ければ、それでいいことだったのです。
境界線はなく、所有することで豊かさが得られるというのは幻です。
現実では、所有することで、豊かさを失っている状態ばかり。
空気清浄機の例ばかりではありません。
テーブル、ペット、本、テレビ、冷蔵庫なども同じ話です。
もちろんすべて持つなというわけではありません。
「持つものが少ないのは、それだけでとても軽いですよ」と気づいてほしい。
けんかも対立も悩みも、少なくなります。
悩みが減り、苦労も減り、時間とお金の節約になります。
はたまた人生の節約にもなるでしょう。
悩みが減り、節約もできれば、本来したい仕事へ集中を向けることができます。
本当の豊かさを手に入れていくのです。
手に入れるためには、手放す必要があるという現実に気づきましょう。
手放すと、手に入れられるという現実に気づきましょう。
世の人間たちは、所有欲という幻のために「できるだけたくさん持とう」としています。
守るものが増え、悩みが尽きず、いつも苦労をしているのです。
私の部屋には今、テレビがありません。
冷蔵庫も電子レンジもありません。
ベッドがなくて、布団暮らしです。
風呂なし、畳4畳半です。
本当に何も持っていません。
布団1つに、生活に必要な最低限の服と、公私ともに必要なノートパソコンだけです。
部屋は、まったくの殺風景です。
いつでも引っ越しができます。
泥棒が入ってきても、すでに泥棒が入られた後かと勘違いしてしまうほど、何もありません。
これだけ物がないと「大変ですね」とよく言われますが、まったく大変ではないのです。
悩みも対立もけんかもないから、楽で仕方ありません。
むしろたくさん持っているほうが「大変ですね」と思います。
たくさん持つことで「守るもの」が増え、悩みも苦労も増えます。
私は今、物が少ないから掃除が素早くできてしまいます。
物もないし部屋が狭いと、掃除は一瞬で終わります。
部屋はいつもきれいです。
テレビや漫画がないから、集中を邪魔する存在はありません。
本当に自分が好きな執筆に集中でき、いらない物は徹底的に排除しました。
冷蔵庫も電子レンジもないですが、自宅のそばにコンビニがあるので、そこで日常に必要な大半が手に入ります。
コンビニには冷蔵庫もあり、電子レンジもあり、豊富な雑誌に食料を24時間いつでも買えます。
部屋の外にあるため、部屋の中には何も置く必要はないのです。
集中力は、鍛えるものではありません。
捨てることで、取り戻すのです。
苦労や悩みも、背負うものではありません。
苦労や悩みの「元」を取り除けばいいのです。
掃除のテクニックも身につける必要はありません。
部屋が狭いと、テクニックなんてなくても、すぐ掃除が終わってしまいます。
泥棒に入られないかと心配をして、セキュリティー装置や施錠にお金をかける必要もありません。
侵入されても、盗むものがなければ、何も盗んでいくことはできません。
解決は、手に入れることで、解決するのではありません。
捨てることで、解決すればいいのです。
好きなことがあるということは、嫌いなことがあるということです。
嫌いなことがあるということは、好きなことがあるということです。
どちらに転んでも、苦しみがあります。
分ける心は病気です。
分ける必要など、初めからないのです。
すべては最初から1つ、あなたさえ、1つなのです。
手は親指から小指まで、5本の指で形成されていますが、手のひらでは1つにつながっています。
親指や小指という「名前」が付けられているから、まったく別の実態があるように思えます。
親指も小指も、どちらも「手」です。
別々にあるのは幻であり、実は手のひらで1つになっています。
個々では「親指、人差し指、中指……」と別々に見えますが、全体から見ると「手のひら」という1つです。
つながっています。
5本の指ではなく、1つなのです。
分けようとするのは、人間の悪い癖なのです。
好きなことを突き詰めていけば、嫌いなことが好きに変わります。
興味のある分野が増え、嫌いなことも包み込んでしまうようになるからです。
嫌いを好きに変える方法で、好きに変えたとします。
好きなことが増えて、幸せに囲まれたような感覚になります。
好きなことがたくさんあるということは、大いに結構なことです。
しかし、好きも幻であることに気づきましょう。
人間が、記憶によってつくり出された幻想なのです。
ある人がいる。
その人が突然、あなたに暴力を振るった。
すると、あなたはその人のことが嫌いになるでしょう。
暴力というマイナスの記憶ができたからです。
精神的外傷になることもあります。
ある人が、あなたのことを「助けたい。協力したい」と言ってきたとします。
自分の力になってくれる人なら、あなたも好きになるでしょう。
プラスの記憶ができたからです。
過去にどのような出来事があるかによって、記憶ができます。
記憶によって、物事を判断してしまうようになります。
人間は、記憶によってできているのです。
好きなことを突き詰めていけば、嫌いなことが好きに変わる方法は、表面的な方法です。
嫌いな記憶を、たくさんの好きな記憶で、塗り替える方法です。
たしかに効果はありますが、表面的な方法であり、根底は改善されていないのです。
「これは良いことだ」
「これは悪いことだ」
世の中には、法によってたくさんの善悪が決められています。
「善は良いこと、悪は悪いこと」という認識が、一般的です。
おや、ちょっと待ってください。
本当の現実に目を向け、夢から覚めましょう。
「法を犯す」という出来事も、善悪を決めているのは人間の都合です。
本当の善悪かどうかは、疑問です。
法を作ったのは誰ですか。
人間ですね。
法の大部分は、人間の都合でつくられた偏りのあるルールです。
実体としては、善も悪もありません。
人間が「これは善にします。これは悪にします」と社会的ルールをつくってそれに従い、良い悪いと認識を持つようになりました。
自分が殺されたくないから「殺人は罪である」というルールをつくりました。
人間を殺すと罪になっても、アリを殺して罪にはなりません。
植物を踏みつぶしても、罪にはなりません。
法は人間にはよくても、犬、猫、地球にとって、本当に善ではありません。
全体から見れば、人が作った法律も、悪の1つと考えることができます。
牛肉はタンパク質が豊富だから体に良いですよという善があっても、そのために牛を殺してしまうという現実は悪です。
お金があると生活が豊かになるという善があっても、そのために家族とコミュニケーション不足で家庭崩壊になっては悪になります。
きれいな机をつくろうという善があっても、そのために森林を伐採してしまい、地球の温暖化につながるという現実は悪です。
平和のためという善があっても、そのために戦争をして、たくさんの人が殺されてしまうことは悪です。
宗教では善という大義名分を掲げていますが、実際は宗教戦争により、たくさんの人が殺されている悪があります。
善と悪って、何なのでしょう。
世の中の善と悪は、本当に曖昧です。
人間が自分の都合の良いように作った法律によって、私たちは大変振り回されています。
真実に目を向けてください。
実は、すべての物事には、善も悪も、好きも嫌いもありません。
「なんだかわからなくなってきた。どういう意味なのだろう」
その言葉を待っていました。
い良いよ、大詰めです。
この世には、好きも嫌いも、善も悪もないという話をしました。
人間の記憶が作った幻であり、善も悪もありません。
あなたは、今、現実に生きていると思っていますが、そう思っている現実こそが実は夢であるということに気づきましょう。
私たちほとんどは、現実に生きていると思っていながら、いまだ夢の中をさまよっているのです。
記憶によって好き嫌いという幻を見て、法によって善悪という幻を見ています。
どちらも実体はありません。
どちらも幻であり、本当の現実ではないのです。
夢なのです。
殺される現実に苦しんでいても、朝になって起きると、実はそれは夢であったということに気づきます。
しかし、心臓がバクバクと高鳴り、血圧も上がり、汗でびしょびしょになっています。
ありもしないことに振り回され、苦労をして、悩み、もがいているのです。
これと同じことを、あなたも現実という夢に振り回され、心臓が高鳴り、血圧も上がり、汗でびしょびしょになっているのです。
「現実だと思っていることは、実は夢だということはわかった」
「では、本当の実体は何なのでしょうか」
好きも嫌いも善悪も「ないという真実に気づく」のです。
「なんだ。本当はなかったんだ!」という現実に気づいたとき、私たちは夢から目が覚めます。
夢から目が覚めて「ない!」と気づいたときに、苦しみから解放され、本当の「ある」が見えてくるのです。
「1つである」の「在る」に気づくのです。
これまでたくさんの境界線を引っ張ることで、ばらばらが生まれてしまった話をしました。
しかし、そもそもそれは1つです。
法により善と悪という境界線が引かれていました。
しかし、その境界線は、実はないのです。
好き嫌いという間には、境界線があります。
しかし、その好き嫌いも実体はなくて、夢であることに気づきます。
「ない!」ということに気づけば、ふわりと境界線が消えます。
境界線は「ない」。
好き嫌いも「ない」。
善悪も「ない」。
すると、どうなりますか。
2つが1つになりますね。
境界がなくなった代わりに、1つになります。
1つが「在る」のです。
「ない」に気づいた瞬間「すべては1つである」という「在る」に気づくことができるのです。
日本と韓国が1つになれば、どうなるでしょうか。
境界がなくなって、1つになりますね。
1つが「在る」ではないですか!
いえ、そもそも最初から1つだったのです。
1つだったのに2つだという幻、夢を見ていたのでした。
さらに地球全体から見てみましょう。
たくさんの国があると言っているあなたは、まだ夢を見ています。
宇宙から地球を見てみましょう。
どこに境界線なんてありますか。
境界線は、人間が勝手に作った幻です。
本当は「ない」のです。
「ない」に気づいた瞬間「地球は1つではないか!」という「在る」に気づきます。
さらには、太陽系、銀河系も考えましょう。
名前をつけているから、別々の実体があるようにあるように思えますが、そもそも境界線などないのです。
銀河系の中に太陽系も含まれているから、1つなのです。
しかし、銀河系も、宇宙の中に含まれているから、1つなのです。
「ない」という真実に気づいたとき、あらゆる森羅万象の境界線はなくなります。
消えます。
「ない」に気づくと、境界線は消えてしまい、ついには「1つ」になります。
それが宇宙なのです。
愛であり、調和なのです。
そもそも「在る」のです。
そもそも最初から、1つであり、調和されているのです。
私たちは、あるのに、ないと思っていただけでした。
「無い」に気づいたとき、ようやく本来の姿である「(すべては1つで)在る」という真理に気づくことができるのです。
絶対的なことであり、神の力、宇宙の力、愛であり、完全なる調和の世界です。
1つには、けんかも対立もありません。
あなたがまだけんかや対立に苦しんでいるということは、まだ境界線を引いている証拠です。
ありもしない夢に振り回されている。
何もかも、あらゆる森羅万象すべては「1つ」です。
この世にはすべては1つであり、つながりがあります。
自分が強くなれば、誰かが強くなるということです。
あなたが幸せになれば、あなたの友人にも影響を与えます。
つながっていて、1つだからです。
「影響を与える」という言葉がありますが、そもそも1つなのですから関係があるに決まっています。
影響を与えようとしなくても、影響を与えざるを得ないのです。
日本はアメリカからの輸入に頼り、アメリカは日本からの輸入に頼っています。
フランスはブラジルと関係を持ち、ブラジルはインドと関係があり、インドはイタリアと関係しています。
すべてが関係し合っているのです。
目には見えなくても、つながりがあり、関係しています。
「人を助けたい」と言う人がいます。
人を助けたい人は、まず自分が幸せになることです。
自分が幸せになれば、おのずから相手も幸せになります。
自分と相手はつながっていないように見えますが、実は1つだから、必ず関係があるのです。
私とあなたも今、つながっています。
私はあなたと一度もお会いしたことがありません。
恐縮ながら、見たことも、話したこともありません。
しかし、今、私が文章を書くという好きなことをすることで、まず自分がハッピーになれます。
その文章を読んだあなたも、ハッピーになれます。
ハッピーになったあなたは、友人にもハッピーを与えることになり、その友人からまた次の友人へとハッピーをつなげていきます。
目には見えないつながりによって、私たちは影響を与え合っています。
そもそも1つなのですから、影響を与えるのは、当たり前といえば当たり前なのです。
初めから、1つなのですから。
円周率をご存じですか。
円周を直径で割って求める値のことを言います。
ちなみに私が小学生のころは「3.14」として覚えました。
当時の私は「3.14」が円周率の答えだと思っていました。
しかし、後に高学年になると、さらに正確な答えがあることを知ります。
「3.141」です。
小数点第3位まで求めた、より正確な答えです。
しかし、さらに正確な答えがあります。
「3.1415」です。
いえいえ、まだまだ続きます。
円周率は、小数点以下が無限に続く究極の率であることを知ります。
「3.1415926535897932384626433832795028841971……」
答えがあっても「さらに正しい答え」があり「さらに正しい答え」にも「さらにさらに正しい答え」が延々と続きます。
すると、変ですね。
あることに気づきませんか。
答えが延々と続いて終わりが無いということは「真の答え」は「無い」ということになります。
円周率の完全なる絶対的な答えは「無い」ということに気づいたとき「無限」という「在る」に気づけます。
答えが「無い」ということは、答えは無限に「ある」ということなのです。
無限という言葉を、私たちは日常でよく使います。
「限りが無い」と書いて「無限」です。
たくさんあって、もう数え切れないほどの天文学的な数字であり、際限が無いということです。
限りの無い無限とは、つまり「1つも無い」ということになります。
「1つも無い」という正解は「無限に在る」という世界と同じなのです。
「無限に答えがある」ということは「本当の答えは1つもない」ということを意味していたのです。
真実に気づくとは、汚れたメガネをきれいに磨くということです。
汚れたメガネをかけて現実を見れば、どれも汚れた世界に見えます。
実際に世の中は汚れてはいないけれど、汚れたメガネをかけているため、すべてが汚れて見えるのです。
あなたが最悪だと思っている現実は、現実そのものが問題ではありません。
あなたの心が問題なのです。
心が汚れていると、そこから映し出される世界も、すべて汚れて見えます。
心というフィルムが汚れていると、そこから映し出される映像もすべて汚れます。
真実は、好きも嫌いもない、真っ白な世界があります。
「何てつらい毎日なのだろう」
「ひどい現実だ」
そう思っているのは、錯覚です。
原因はあなたの心が汚れているからです。
汚れた心からでは、現実もすべて汚れて見えてしまうのです。
私たちは問題解決を、現実の世界に求めようとします。
現実を変えて問題を解決しようとします。
それがいけないのです。
そのやり方だからいつまで経っても、問題が解決されません。
汚れた映像を、スクリーンをきれいにして解消しようとしているようなものです。
根本的原因は、スクリーンではなく、フィルムですよ!
往々にして、人は見当違いのところを一生懸命にきれいにしようとしています。
あなたはメガネが汚れているときに、どうしますか。
メガネを磨いて、きれいにしますね。
曇って見える現実は、原因はメガネにあるのです。
それと同じことを、心にもすればいいのです。
きれいにすべきは、現実ではなく、己の心なのです。
現実は、自分の心が映し出された映像にすぎない。
現実に問題があるのではありません。
自分の心に本当の原因があるのです。
難しいことは、受け止め方を変えると、成長のきっかけであることに気づきます。
難しいことがあるから悩み、考えるきっかけになります。
好きな人から「あなたのことが嫌いになった」と言われれば「私のどこがいけないの」と聞きますよね。
つらいことがあるから、考えるきっかけになり、真剣に改善しようとします。
改善されれば、次からは今までより恋愛がうまくなっていることでしょう。
こうした事実に気づくと「つらい」とは、なんだろうと思います。
つらいことは、感謝であり、愛なのです。
先ほどの例でも「あなたのことが嫌いになった」と言われたから、自分の悪いところに気づき、改善するきっかけになりました。
成長でき、恋愛がうまくなりました。
感謝ではありませんか!
もし言ってくれなければ、いつまでも改善されないままだったことでしょう。
つらいことのおかげで、よくなったのです。
つらいことというのは「いつ」という時間によって、変わってしまいます。
「以前」はつらいことだった経験が「今」では感謝という経験になっているのです。
時間がたって経験が成熟され、マイナスからプラスに変わりました。
経験そのものが問題ではないのです。
つらいという経験は、あって、ないのです。
あるのは、受け止め方だけ。
あなたが問題をどう受け止めるかによって、つらくもなり、感謝にもなります。
苦しみにもなり、成長にもなります。
出来事は、受け止め方により、無限に変わってしまいます。
良い経験も悪い経験も、ないのです。
あるのは、あなたの「受け止め方」だけです。
家族のことが嫌いと言っている人は「自分も嫌いだ」と言っていることになります。
「自分のことが好き」ときれい事を言っている人でも、家族をけなしたりする人は、同時に自分もけなしていることになるのです。
自分を生んで、育ててくれたのは父親であり、母親だからです。
親を侮辱する人は、自分を侮辱しているのと同じです。
本当に自分のことが好きだと感じていれば、必ず父と母にも感謝という気持ちが出てきます。
そんな自分を生んで、育ててくれたのは父親であり、母親だからです。
親に感謝をするとき、自分を素晴らしいと認めたということです。
あなたが愛車を素晴らしいと認めるとき、つくってくれた機械工の人たちも素晴らしいと認めたことになります。
同じように、自分を素晴らしいと認めるということは、生んでくれた親も素晴らしいということです。
狭い視野で物事を見ていると、自分一人のことしか考えなくなります。
しかし、大人になり、視野を広く、視点を高くして考えると、考えが変わります。
自分の周りには、父と母、祖父と祖母のほか、数多くの恩師や友人たちの存在に気づきます。
支えや協力があって、今までやってこられているのだと気づくようになるのです。
「私は、ダメな人間なんです」
ときどき、自分で自分の悪口を言う人を見かけます。
自分を謙虚に見せていることでしょうが、実は横柄で偉そうなことを言っています。
自分の乗っている車をダメな車だと悪口を言えば、つくってくれた機械工の人たちに対しても悪口を言ったことになります。
同じように、自分を否定することで、自分を生んでくれた親を否定し、宇宙を否定していることになります。
恩師、友人を否定することになり、すべての一切に対して「ダメな人たちだ」と間接的に言っていることになるのです。
感謝そのものを放棄して、忘れている状態なのです。
すべては、必ず素晴らしいのです。
「素晴らしい」と思い込むのではなく、そもそも初めから「素晴らしい」という事実に気づくことです。
従来の成功哲学では「感謝しなさい、しなければならない」というプラス思考を、無理やり頭に詰め込む方法でした。
たしかに一時的に効果はあるかもしれませんが、そもそも初めから必要ないことです。
そもそも初めから素晴らしいのですから、わざわざプラス思考にならなくても、その事実に気づくだけで良いのです。
プラス思考なんて必要ないのです。
真実に気づくだけでいいのです。
「素晴らしい」としか思えない現実に気づけば「感謝しよう」と頭に叩き込まなくても、気持ちが自然と湧き出てくるのです。
人間には、苦しみから逃れようとする本能があります。
生存するために、苦しみから逃れることとなると、本気になります。
さまざまな知識、知恵、協力を結集して、命を懸けて解決しようとします。
苦しみは、たしかにつらいですが、人類は苦しみのおかげで進化を遂げてきています。
寒いという苦しみから、ヒーターが発明されました。
暑いという苦しみから、扇風機の発明されました。
「こうしたほうがいい」と指示されて「はい、わかりました」と答える人は、頭でわかっていても体ではわかっていません。
苦しくないから本気で考えず、学ぼうとしないからです。
「自転車はこのように乗りましょう」と教科書から優しく教わっただけでは、実際では自転車に乗れない現実を体験するはずです。
自転車で転んで、自分が苦しむ経験を積んだほうが、成長ができます。
自転車から転ぶたびに痛みを感じますから、本気で苦痛から逃れる努力して、学ぼうとするからです。
「今度から絶対失敗しないぞ」
「どうすればいいのだろうか」
「なるほど。コツがわかってきたぞ」
苦しい経験をするたびに、人は真剣に苦しみから回避する方法を考えます。
同時に体にも染み込みます。
失敗したほうが、成功より得られることが多いのです。
苦しみから逃れようとする力は、強大です。
一時的にはたしかに痛いですが、長期で見て、大きな成長を得ることができます。
すべての人には、必ず才能が与えられています。
「またまたそんな大げさなことを」
いいえ、大げさではありません。
事実として、あるのです。
咲かない花などないように、才能のない人間も存在しません。
才能といえば、大それた大げさな表現に聞こえるかもしれませんが「なるべき姿になることが才能」と思ってください。
なるべき姿になったとき、その人らしい仕事や生き方が、できるようになります。
わかりやすい例をあげましょう。
3種類のタネがあります。
どれも見た目はそっくりであり、米粒くらいの小さなタネです。
一見しただけでは、何のタネなのかわかりません。
どれも似たり寄ったりの姿形です。
しかし、水を与え、日光を与えると、芽を出して成長し始めます。
どんどんと大きくなり、それぞれのタネが「なるべき姿」になろうと、成長します。
あるタネは、バラの花になります。
あるタネは、桜になります。
あるタネは、アサガオになります。
初めはどれも同じようなタネでしたが、成長により、それぞれのなるべき姿形になったのです。
そのタネらしい生き方ができ、そのタネにしかできない仕事ができるのです。
人間も、これと同じです。
生まれたばかりの赤ちゃんは、みなどれも一緒です。
私もあなたも、生まれたばかりのときには、裸1つ。
同じような姿で生まれてきました。
しかし、花のタネと同じように、生まれたばかりは一緒でも、内在的に「なるべき姿」があらかじめ植え付けられています。
タネの状態では、なかなかわかりません。
しかし、成長するにつれ、そのなるべき姿になっていくことを「才能を発揮する」といいます。
自然の流れに従うことです。
自然の流れに従うとき、努力、根性、頑張りは、不自然なことです。
バラの花は、バラの花になることに努力も頑張りも必要としていません。
桜は桜の花になるために、努力も頑張りも不要です。
そのほかの花も、みな同じです。
自然とそうなってしまうのです。
ありのまま、自然に育ったから、それぞれの「なるべき姿」へとなることができたのです。
頑張っていることは、不自然です。
タネは、ありのままの成長を遂げただけです。
ありのまま、自然の成長を遂げるときに、努力も頑張りも不要です。
これが、自然の法則です。
花の世界ではたやすいことですが、人間の世界では「自然」にできていない人がたくさんいます。
衝撃的なことを言います。
あなたが今、頑張ってしていることは、本当のあなたの才能ではありません。
間違った道へ進んでいます。
申し訳ございませんが、今すぐやめましょう。
頑張ってしていることは、不自然だからです。
宇宙の理に反しています。
花は、自然の力に任せて成長しているから、それぞれが「らしい姿」「なるべき姿」へとなることができました。
自然の力に任せて成長するとき、努力も頑張りも必要ないという自然な状態になります。
あらかじめ、そういうタネなのですから、そうなるだけでいいのです。
バラの花は、頑張ってバラの花になっているのではありません。
自然の力に任せているだけです。
ありのままの姿になっているだけです。
もし、バラの花がヒマワリになろうと頑張っても、ヒマワリになることはできません。
努力によっては、似せた成長はできるかもしれませんが、いずれにせよ本来進むべき道ではありません。
不自然な状態であり、不完全に終わってしまいます。
あなたが今、頑張ってやっていることは、本当にあなたがするべきことではないのです。
本当のあなたは、頑張らなくてもできることです。
才能は、頑張らなくてもできることです。
バラの花がバラの花になるために、頑張っているでしょうか。
ヒマワリの花が、ヒマワリの花になるために、頑張っているでしょうか。
いいえ、ありのままの自然な状態で育っていますよね。
ありのままの自分を発揮するとき、もはや努力も、頑張りも、必要ないのです。
頑張らないとできないことは「それはあなたが進むべき道ではない。なるべき姿ではない」という神様からの警告です。
自然の流れ、宇宙の理に反しているから、なかなかうまくいかないのです。
努力をしないとできないことは、不自然なことです。
頑張るということも、不自然なことです。
自然に反した生き方では、才能が発揮できないのです。
あなたには、本来なるべきタネがすでに備わっています。
才能というタネがあります。
そのタネを成長させるためには、努力も頑張りもしないことです。
花のように自然に生きるのです。
あなたが頑張らなくてもできることが自然な成長であり、才能へとつながる道なのです。
私には「執筆」という才能が与えられているようです。
私もあなたと同じように生まれてきたときには、普通の赤ん坊でした。
私の両親は、私をありのまま自然に育ててくれました。
好きなことを、好きなだけさせてくれました。
そのおかげで、自然に自分らしく生きることができるようになり、自分には執筆が合っているなということに気づき始めました。
好きなことばかりやっていたおかげで、その才能がぐんぐん伸びました。
また人生について考える性分も、私に初めから備わっていたことです。
頑張らなくてもできてしまいます。
それが当たり前で、むしろそうしている時間が大変心地よく感じます。
ありのままの自分を出して、才能を発揮しているのです。
私は単純に「これ、いいな」「もっとこれをやりたいな」という自然な気持ちに、身を任せて生きているだけです。
それだけで「なるべき姿」になっていったのです。
「あれ、嫌いなことって本当にマイナスだろうか」
「マイナスは、プラスではないだろうか」
私はある日、ふと、現実を疑いました。
今まで、マイナスと思っていた出来事をあとから振り返ると、プラスとしか考えられない事実に気づいたからです。
今の自分の成長を目にして、なぜ成長できたのかと考えるほど、プラスの経験よりマイナスの経験ばかりが思い浮かびます。
あなたもそうではないでしょうか。
叱られた経験、怒鳴られた経験、けんかをした経験、失敗した経験。
たしかにどれもマイナスの経験に思えますが、そのおかげで、大きな成長を素早く学ぶことになったはずです。
苦しい経験の瞬間はマイナスしか感じませんが、後で考えると、プラスになっている事実に気づきます。
受け止め方が、変わったからです。
後になり冷静になって考えると、怒鳴られた経験から「これをしてはいけない」というルールをしっかり学べました。
うっかりミスは恥ずかしいですが、受け止め方によっては「うっかり」を見つけるチャンスになり、改善する良いきっかけです。
プラスの経験、マイナスの経験は、どちらもないのです。
あるのは「受け止め方」だけです。
実は、世の中にはマイナスもプラスもないのです。
すべては、あなたの受け止め方しだい。
受け止め方によって、プラス・マイナスが決まります。
現象、物事、経験を変えるのではありません。
変えるべきは、あなたの心であり、受け止め方なのです。
私は以前、失敗を恐れる人間でした。
「成功するように、失敗しないように」と一生懸命に頭で念仏のように口にしていました。
今は「成功しても失敗しても、どちらでもいいや」と、のんきに考えています。
どちらでも、受け止め方をプラスにすればいいだけだからです。
プラスの経験を歓迎し、マイナスの経験を恐れるのではありません。
受け止め方を変えて、現実を変えてしまうのです。
逆説的な話で、意外な事実を1つお話しします。
今まで学んできたことを、大きく変えるような事実です。
何を大きく変えるかというと、次の一言です。
「勉強すればするほど、ストレスの多い人生を歩みやすくなる」という事実です。
勉強をして、なぜストレスが増えるのかと思うでしょう。
勉強をすればするほど、頭が良くなるからです。
「頭が良くなれば良いではないか。何が悪いのだろうか」
そうきましたね。
頭が良くなると、次にどうなるでしょうか。
その得られた知識を持って、人を裁くようになるのです。
たしかに役立つ知識は素晴らしい。
勉強熱心な人は、たくさんの学び、知識を得て賢くなります。
勉強をすればするほど知識が豊かになり、生活や人生が向上するように思えます。
しかし、頭に知識を詰め込む一方で、だんだん次のような言葉も増えます。
「あの人は、なってない」
「うちの両親は、なってない」
「うちの上司は、なってない」
「あの人の言葉遣いは、なってない」
「あの国は、なってない」
自分の知識を持って、人を裁いてしまうようになるのです。
自分の知識に自信を持ち、自分の理想を押し付け、相手を非難するようになる。
自分がいちばんだと思うようになります。
人を裁く人は、決まって頭がいい人です。
頭がいいから人を裁けます。
高学歴で、賢くて、知識が豊富な人です。
つい人を見て裁いてしまうようになり、壁ができ、対立ができ、友人が減り、幸せが減っていくのです。
本来、人を幸せにするための勉強が、人との壁をつくってしまう現実があります。
宗教も、素晴らしい教えの塊です。
しかし、皆さんよく現実を見てみましょう。
本来、いちばん人を救うべき宗教が、いちばん人を殺してしまう現実になっています。
「自分が正しい」という人同士の対立により、けんかになり、殺し合いになっているのです。
「正義」という大義名分で、大量の虐殺が繰り返されています。
個人という小さな単位なら、けんかです。
国という大きな単位なら、戦争です。
あなたも同じようなことにはなっていませんか。
嫌いな人がいるときに、相手に原因を求めるのではなく、自分を振り返ってみましょう。
あなたは頭がいい。
だから人を裁いてしまう。
あなたが勝手に理想を押し付け、裁いているだけではないですか。
自分の理想を相手に押し付けようとすると、限りがありません。
相手は相手、自分は自分。
おおらかな気持ちを持つことです。
間違っても、自分の知識を相手に押し付けたり、裁いたり、非難してはいけないのです。
本当の裁きは、人がすることではありません。
宇宙がすることです。
宇宙の中に生きているのですから、ルールには従わなければなりません。
反するものがいれば、友人と仲が悪くなったり、病気になったり、寿命が短くなったりと、適切な罰を与えます。
人が与える以上の重い罰を与えます。
本当の裁きは、あなたがしなくても、すでに「宇宙」という最高裁判官が存在しています。
宇宙に任せておけばいいのです。